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アトリエ3モアとは、砂沢ビッキさんが音威子府で構えたアトリエの名前を元に名付けられた。元々は音威子府で一番古い公共施設の筬島小学校が使用されています。入り口にあるドアをあけると廊下が展示室の「風の回廊」風がテーマで巻き絵、絵画、版画とポスターが展示されています。風の回廊を抜けると展示室「トーテムポールの木霊」続いて展示室「ビッキからのメッセージ」テーマは「人」奥には等身大のビッキさんの写真が張られ手前には「デスマスク」が置かれている。「午前3時の部屋」のテーマは「森」、展示室「ギャラリー」のテーマは「水」です。ここは一般使用が可能なギャラリーです。その他にも展示室が有りますが楽しいのは最後の展示室「いないいないばぁ」ですね。テーマは火で昭和41年から平成9年までススキノで営業していたカウンターが当時のままある。砂沢ビッキさんはオタスツウンクルの末裔で家系には武四郎の日誌や蝦夷人物誌に登場する「セッカウシ」(ウリウ・カバト・ソラチ三地方の惣乙名)がいる。また砂沢クラ女史の夫でカムイユーカラの語り手で知られた砂沢友太郎氏は叔父に当たる。国道から筬島大橋を渡ると見えてきます。◇音威子府村字筬島
元々は砂澤ビッキ氏が名刺代わりに作成し筬島に設置する予定だったようですが、村民の希望で村のシンボルとして音威子府駅前に建立(1980年)された高さ約14mの屋外彫刻。1989年と1990年の強風で上部が折れ、危険と判断され乳牛の顔から上は切断し撤去。同年国鉄天北線廃止でバスターミナルの障害になると撤去され、保存されていたのを「エコミュージアムおさしまセンター」開設の前年(2002年)に筬島に里帰りして「乳牛」から下の部分が再設置され筬島のシンボルとして親しまれてきた。作品完成後30年、再設置から10年経過し崩壊の恐れがあるため、2012年12月に屋外から屋内に移設保存、公開されている。折損したタワーの上部と川村アイヌ記念館前に立っていたトーテムポールも保存・展示されている。「自然は風雪という名の鑿を加える」として彫刻を自然に委ねる考えを示していた作者の遺志と作品保存が相反することになるが、住民の意向を尊重し保存を優先したという。オトイネップタワーに変わって高さ約7mの新しい筬島のシンボル、トーテムポール「オサシマタワー」が迎えてくれる。
国道40号沿いの筬島橋から稚内方面に約1km走ると電光掲示板と武四郎の看板が見え、看板を右折、500m程先に平成23年に更新された北海道命名の地碑とプレートがある。松浦武四郎は踏査行の帰路にトンベツホ(筬島地区)のアエトモという古老を訪れ「カイナー」の意味を尋ねたところ「カイ」は「この国に生まれたもの」「ナー」は敬語という事(言語学者は否定、普通は男性の尊称との事で古老アエトモの物語か?)を知る。明治2年(1869)に明治政府から蝦夷地命名の任を受けた松浦武四郎は古老アエトモから聞いた話を元に「蝦夷自らの国を加伊という」旨の熱田大神宮縁起を重ねて「北加伊道」としたのだろうか。武四郎は北加伊道、日高見道、海北道、海島道、東北道、千島道の6候補を挙げたが、明治政府は「北加伊道」を採用し東海道の例に倣って「加伊」を「海」に改め北海道が誕生する。北海道の海には「北のアイノの国」という想いが込められ、古老アエトモと松浦武四郎の出会いが有って産声をあげた。略年譜が2014年の洪水で流出し、旧筬島小学校門前にあった天塩川歴史紀行説明板が移設されている。
◇音威子府村字物満内 天塩川河川敷 ◇位置情報 N44°44’28.0” E142°11’00.8”
天塩川歴史紀行説明板は旧筬島小学校正門の裏側、アトリエ3モアの斜め前に設置されていたが2014年の洪水で北海道命名の地にあった松浦武四郎の略年譜が流出し、筬島から物満内の地に移設された。説明板では6月11日、踏査行五日目として概要がしるされている。説明板にないが、川向かい出た一頭の熊を捕らえ「熊送りの儀式」に立会い「熊を処理するには色々の儀式やしきたりがある」と絵とともに天塩日誌に記している。丁巳日誌では「その様、実に異郷の趣なり」と武四郎にもかなり珍しい体験だったようです。佐藤正克氏の闢幽日記に「松浦氏天塩誌ニ七段瀧ノ図アリ。然トモ今其何処ナルヲ知ラズ」とある「シイヘルカルシ七段の滝」に関しては佐藤氏が場所を間違えたか、雨後で帰路は増水していたというので一時的な幻の滝という可能性もあり。
◇音威子府村字物満内
国道40線から筬島大橋を渡り舗装路を進んでいくと踏切となるがその手前の角地に標柱がある。安政4年(1857)年の天塩川上流域を踏査時、武四郎一行はトンベツホ(ペンケオニサベとも)にてアエトモ家に泊まる予定だったが惨状を見て諦め、少し遡って案内人の一人トセツの妻が遊びに来ていたというトチノキの家に宿泊(6月12日)。復路はアエトモ家に宿泊(6月25日)したと天塩日誌にあるが、丁巳日誌によると実際はトチノキの家に宿泊しアエトモ家を訪ね色々と話を聞いたことになっている。宿泊した夜に「ホッホッホッホッと啼鳥有」家主のアエトモが「「最上ニシハが内地にもいる仏法僧という鳥だと言っていた」と云い、武四郎は初めて仏法僧と云う鳥の鳴き声を聞いたというが、実際はコノハズクらしい。最上ニシハとは幕臣近藤重蔵らと千島を探検し、9回にわたって北方探検にあたった最上徳内の事。※2014年春に訪問した時は史跡表示板が外されていたが同年の秋に再設置されている。詳しい内容が書かれていた天塩川歴史紀行説明板は物満内に移設されました。
◇音威子府村字筬島 ◇位置情報 N44°44’38.0” E142°11’18.6”
音威子府から天塩川は渓谷を作り西流し音威子府渓谷と呼ばれ、紅葉が綺麗だが中でも手塩川支流物満内川付近の紅葉が見事、中川町側は神路渓谷と呼んでいる様だ。天塩川を挟んだ筬島には彫刻家、故 砂澤ビッキ氏の作品を展示したエコ・ミュージアムおさしまセンターがある。天塩日誌には現在の神居山裾のシイヘヌカルシ「七段の滝の図」(頓別坊より下流)の記載が有るも未確認。公式文書にはただ滝となって落ちていると。筬島付近や鬼刺辺川には実際に滝があり、7段の滝があっても不思議ではないが、武四郎はかなりの滝好きなようででオーバーな表現が多いが、探査行の状況から想像すると季節、増水時限定の滝なのかも。
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