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富良野はアイヌ語のフーラヌイに由来。富良野川は十勝岳西側を水源に多くの支流を集め流下し空知川に注ぐ。『北海道駅名の起源』ではアイヌ語“フーラヌ・イ”『十勝日誌』には“フウラヌイ小川、此原ビエの硫黄山より落る故に臭気鼻を衝き、一掬を試んとなすや土人等毒有とて制す”とある。富良野川の十勝岳から流れ出る川の水に硫黄の臭氣があるためそう呼ばれたのだろう。流域一体を富良野と呼び上富良野町は富良野川の上流部に位置するにあるため「上」の字を冠したもの。現在も川底は赤いが臭気は殆どなく水も綺麗、これは十勝岳の硫黄が採掘された結果かも知れない、ただ魚類は今も生息しない。
富良野川の支流で、清富地区の南東奥を水源とし清流は日新ダムを経て富良野川に注ぐ。魚の生息しない富良野川と言うが、その支流であるピリカフラヌイ川に昔はオショロコマを釣りに行った。ダムが出来る以前の事だが上流には湧水もある綺麗な水だった。川底が赤く水質も悪い富良野川と対比されて呼ばれたのだと考えるのが妥当か、何が良いのか今となっては正確には判らないが。
富良野川とヌッカクシ富良野川の間を流れ下り日の出ダムを経て上富良野市街地で富良野川に注ぐ小さな川。素直にそのまま言えばフキが群生するという事になるが。
安政時代のアイヌはイワゥ・ペッ“iwaw-pet”“硫黄・川”と名付けていた川で、水源を安政火口、三峰山山麓にもち数多くの支流を集め西流し旭野から日の出を経て市街地東部を貫流、盆地内を富良野川と並行して流下し、富良野市北部でベベルイ川を伴い富良野川に注ぐする。古い地図には、ヌプカクシュフーラヌイ川とある。松浦武四郎 イワヲベツ“小石川、急流。水源ビエ岳にて落ちる。彼硫黄の焼る処より来ると此水酢味有呑がたし”とある。ヌプ・カ・クシ・フラヌイ川“”nup-ka-kus-hurenui」“原野・上・通る・富良野川”当時の盆地は湿原だつたとの事で無理矢理こじつけてみたが。
ヌッカクシ富良野川の支流で、東部に当る富原地区の奥、陸上自衛隊演習場奥地を水源として、西に流れ、折れて南西に下り中富良野町西中でヌッカクシ富良野川に注ぐ。明治の地図では、ポロペポッナイと記されている。ポロ・ペポッ・ナィのペポッは“pepe-ot⇔ペペオッ”だか事実上はペポッになる。ポロ・ペポッ・ナィ“親である(大きい)・水々・多くある・沢”といったところか。水が沢山有る所となれば湿地帯という事だろう。この川が湿地帯を流れ下る流路には湧水や多くの分流が有ったのでは思われます。沢地の奥に湧水の池があるという。そんなに大きくないのにポロが気にはなるが・・
ホロベツナィ川の約2kmの南側を、ホロベツナィ川と並流し中富良野町字文四地でヌッカクシ富良野川に注ぐ。東中の神社奥付に水源をもつ。昔は魚が多く、イトウなども釣れたという話だが今では想像もつかない。ホロベツナイ川地域の湿地帯は地続きでつながっている。古い地図では、ポンペポッナイと載っていた。ホロベツナイ川とは子に当る川の関係であるが上富町史ではチエポッナィ(魚の沢山いる沢)の意とあり、そうなるとホロベツナィの持つ意味が変わってしまう。
富良野岳北部を水源とする川で、東部丘陵の支流を集め富良野市北部でヌッカクシ富良野川に注ぐ。上流部は転石帯となり水は綺麗だが川底は褐色、水深は浅いが激流の川という。松浦武四郎の『戊午日誌』ではベベルイ“川巾七八間浅瀬。転太石にして急流。是には魚類なきよし”『十勝日誌』では“ヘ、ヘルイ 大石川”山田秀三氏はペ・ペ・ルイ“水・水・甚だしい”と解釈している。釣り師としては「魚類なきよし」が妙に気になるが。
ベベルイ川の支流で、水源は富良野岳に発し、陸上自衛隊演習場内でベベルイ川と合流する。『十勝日誌』・サッテクベベルイ転太石磊々とし『戊午日誌』“サツテキベヾルイ乾いたベヾルイと云儀なり・此水源ルベシベより来りソラチえ落るなり”水流がはっきりするのは融雪と大雨くらいで、減水期は水流が伏流する俗に言う涸れ沢。水潤れする・ペペルイ川の意味で水の無い川を「カラ川」と改名したのかもしれない。
陸上自衛隊演習場奥地に水源を発し、ベベルイ川支流尾藤川に注ぐ小さな川で近くにポンの付く川はない。一帯の耕作地には大きな庭石ほど石が多くあり、中富良野本幸付近では道路脇に山積みとなっている。平地に石があるのを見るなら原始の泉まで行かれて見るとよい。昔となんら変わらぬ姿でよくぞこんな所を耕作地にしたものだと感心してしまうだろう。そんな訳でポロピナィ「多い・石・沢」多い(大きい)石の沢でも良さそう。
富良野と分水領にある山で、富良野市との境になっている。安政五年、松浦武四郎が十勝越えをした時に聞いた地名をヲツチシベンザイウシベと“右の方(富良野岳)に倍しての高山、頂は岩石”と記す。オクチシは「地の首がへこんでいる所⇔山の鞍部⇔峠」という事になるが、ルーチシと比べると地形的に険しい印象。“okchis-pen-sa-us-pe”“峠の・川かみの・前・そこにいつもある・もの”で富良野岳、川は布部川源流部としてよさそう。武四郎の見たヲツチンバンザイウシベと言われた前富良野岳も見える鞍部がオクチシということになる。その場所は正確にはには分からないが通過したコースはほぼ判っている。その通過点には「松浦武四郎通過の地碑」木標が有ります。
江幌はエホロカアンペッのエホロに漢字を当てたもの。江幌完別川は富良野川の支流で上富良野町北端付近に水源をもち、多くの支流を集め富良野川に注ぐ。水源の先は上川と空知の郡界で最上流部は石狩川水系にあたる二つの川に挟まれ互いに入り組んだ櫛の刃状の地形に沿うように流れている。山田秀三氏は“エ・ホロカ・アン・ペッ”“頭(水源)が・後向き・である・川”の意と解釈しているが川の形を見ると納得出来る。
江幌完別川の支流で町の北端地域である静修地区付近に水源を持つ。上流部は流れが北進し、右折後は等間隔で江幌完別川に並ぶがごとく南流し江幌完別川に入る。上流部の北進する区間は開拓川と名を変えているが、本来はこちらが江幌完別川の本流であろう。山田秀三氏は“トゥラシ・エホロカアンペッ”“(道が)登っている・江幌完別川(の支流)”と見た感じでは開拓川が本流という感じで何となくスッキリしないが。
エバナマエホロカンペツのエバナに漢字を当てたようだ。江幌完別川の支流で、町西部の丘陵地である江花地区に水源を発し中富良野町新田中地区に入りその後向きを変え上富良野町に入り江幌完別川に注ぐ小河川。富良野川と対比してみると後戻りをする流路を形成“e-pana-oma-ehorkaanpet”で“頭(水源)が、川下の方・に入る・江幌完別川”でも良さそうな・・・。
山田秀三氏は“幕末は会所が広尾にあったために、広尾を呼んだ事も有った。十勝はたぶん十勝川下流の辺の地名からできた名であろうが、大地名となったので発祥地も語義も全く忘れられ、諸説並び行われて来たのである”と。戊午東西蝦夷山川取調日誌の中に有る報登加智日誌で“何れが原名なるやをしらず”と書いてあり、当時の人が解らない事を調べると言う事は・・・専門家でも、素人に出る幕はなしです。
上富良野、美瑛、新得三町の境界にある活火山の山で石狩水系と十勝水系の分水嶺でもある。古くは現在の十勝岳、オプタテシケ山、トムラウシ山の山並みを総称して石狩アイヌは「オプタテシケ」と呼んでいたという。十勝という山名は上川側では使われてはなかった様だ。安政年間になり、奥地に入った松浦武四郎の紀行文には硫黄山の名前は有るが今の安政火口の事の様だ。松田一太郎の石狩川水源見聞録では旭岳も十勝岳も焼山と。十勝の山ではビエ岳、ビビ岳くらいしか名前が無かった様だ。
此処では一般的な説をあげておきます。ホロカメットク山は十勝岳と三峰山の中間地点に位置し、安政火口の真上に横たわる岩石山。地図上ではカムイメトクヌプリからカムイメトツクヌプリ、現在はホロカメットク山。ホロカメットク山の意味は、川が本流に対して逆流する所に聳えた山のこと。逆流する川は空知川源流シーソラプチ川を意味するという。上富良野側はヌッカクシ富良野川になる。この山は、ペナクシホロカメトクヌプリ、ペナクシホロカトトクシヌプリとも呼ばれた。ペナは上、クシは流れる,通る、ホロカは本流に対して逆流する、メトックは突き出る・そびえる、ヌプリはご存じの通り山という意味。
安政五年幕府の命を受け和人ではじめて上富良野を越えて十勝に向かった。深山峠にある顕彰之碑の横に立つと十勝連山がよく見えます。日誌には「此処より辰巳の方にチクベツ岳ビエベツ岳ベベツ岳等よく見え硫黄の燃る煙実に目ざましく天にさし上げたり」と有り、これが安政4年の十勝岳噴火の根拠となっている様だ。原始が原には松浦武四郎の「松浦武四郎通過の木標」が有ります。◇上富良野町深山峠
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