☆更新情報など☆
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ここでは永山の色々な情報を近隣の情報と合わせながら紹介していきます。内容は比較的昔の出来事や管理人の独断と偏見で決めた準史跡など、他に巨木や指定保護樹などあまり話題に載らない事を集めてみました・・
1891年に月形村にあった永山、神居、旭川三村の戸長役場が永山(現・永山2条19丁目、商工会駐車場に表示板有り)に移され、1893年に永山村戸長役場の庁舎として完成、その後永山村役場として30年程使用され、1921年の移転によりその役目を終える。平成6年に解体され、解体材を利用し永山市民交流センター敷地に復元され、手前に説明板がある。永山新川の文化桶門でもスケールダウンした永山戸長役場を再現。見学できる期間は4月28日~10月31日の9時30分~16時30分となっている。外観だけならば周年可能。◇旭川市永山3条19丁目 ◇永山市民交流センター敷地内
永山停車場通りと呼ばれていた、現在の永山1条20丁目に建っていた芝居小屋で、近村では最も早く建てられた娯楽施設。明治38年開設で昭和23年までの43年間存続、歌舞伎や新派も上演され、開園日はお祭り騒ぎだった様です。建物の模型が、川のふるさと交流館「さらら」に有り。永山新川の文化桶門にスケールダウンして復元した建物があります。
屯田作家といわれた板東三百は、明治39年、屯田兵赤坂幸太の六男として永山村に生まれる。昭和14年に発表した小説『兵村』が芥川賞候補になった。永山屯田の史実を基にした『兵屋記』は歴史文学賞候補となるも昭和21年、40歳で早世す。国道39号線沿いのパチンコベガスベガス駐車場入口横に表示板有り◇旭川市永山2条8丁目
屯田兵により明治24年に現永山駅裏に祠が建てられ、屯田兵出身地の氏神を祀ったのが始まりと云われ旭川最古の神社。国鉄宗谷線の開通で、明治45年に屯田歩兵大隊跡(現在地)に新築移転。社殿は平成5年に鉄筋コンクリート造りに改築された。他社との違いは永山武四郎が永山神社の守護神として祀られ、軍服姿の銅像がある事。永山の地名は屯田育ての親ともいう、永山武四郎に由来する。この神社を境に旭川寄りに第1、宇園別寄りに第2各中隊の兵屋が並んでいたという。永山神社境内に屯田・力石と金比羅神社、秋葉神社が有り、2つの神社間に地神碑、永山屯田歩兵火薬庫跡碑をはじめ多数の碑が有る。◇旭川市永山4条18丁目
永山神社の守護神となった屯田兵育ての親で、旭川市民、特に永山人には絶大な人気がある。永山武四郎が北海道開拓に果たした功績は大きいが、神とは別に魔神の顔も有った事を付け加えざるを得ない。月形とともに囚人を鉱山や、道路建設に狩り出しその犠牲を顧みなかった。それは囚人労働に名をかりて政敵を一掃したとしか思えず、北海道の開拓史に汚点を残したと思われても仕方ないだろう。囚人労働に関しては議会で追及され中止されたが・・・幕末の野蛮な時代を生き延びた月形や武四郎にとって、いつ寝首を捕られるかもしれない反乱軍(捕虜は囚人となるか殺された)の生き残りにかける慈悲や情けは無かったのかも。◇旭川市永山4条18丁目 ◇永山神社境内
阿部みどり女は明治19年、永山武四郎の四女として札幌市で生まれる。本名は光子、明治43年結婚。結核で転地療養中に俳句をはじめ、高浜虚子に師事、昭和55年93歳で没す。句集には「笹鳴」「微風」「駒草」などがある。句碑は「屯田歩兵第三大隊本部跡」の碑裏面に『郭公や美田の底に鎮む魂』と刻されている。句碑面は建物の関係で撮影は難しい。◇設置場所:永山屯田公園 ◇旭川市永山3条18丁目
永山神社境内で地神の横に有る碑、大きさは地神よりやや大きい白御影石で出来ている。かつてこの辺りは火薬庫、被服庫、営倉が有った所という。あまり目立たないが、数少ない永山屯田の施設跡として残された碑の1つ。大きさは地神と同じ程度です。◇永山4条18丁目 ◇永山神社境内
永山神社境内に有る碑の裏には「明治24年 水稲試作者 永山屯田兵山口千代吉、屯田家族加藤米作」と有る。永山地区の稲作については、諸説あるというが、収穫については、明治25年に2合、同26年に1200kmという記録が有る。今では高品質米として評価が高い永山産米の始まりです。神居町上雨紛にも「上川水稲発祥之地」の碑が有る。記録通りならば雨紛のほうが僅かに早いようだが、どちらにしても上川百万石の礎だった事は確。◇旭川市永山4条18丁目 ◇永山神社境内
屯田兵制度は明治6年に創設され、「士族屯田」だったが、明治23年の条例改正により「平民屯田」となる。屯田兵には17歳から25歳の身体堅固な人を採用、移住には支度料、旅費、荷物運搬料などを支給。明治23年9月20日に旭川、永山、神居の3村が設置され、明治24年に永山村の東・西兵村(現永山)、明治25年に旭川村の上・下兵村(現東旭川)、明治26年に永山村字トオマの東・西兵村にそれぞれ400戸、合計1200戸が入植している。永山が第1、2中隊、旭川が第3、4中隊、トオマが第5、6中隊、それらで上川屯田第3大隊を編成、本部は永山におかれた。本部跡の屯田公園に屯田歩兵第三大隊本部跡の碑(昭和43年建立)、永山屯田第三大隊第五中隊記念碑は永山第3区会館の敷地内、稲荷神社横に有ります。◇旭川市永山3条18丁目◇屯田公園 ◇旭川市永山4条15丁目 ◇三区会館
北海道に住む人々は永山武四郎に対する信仰にもにた評価が見られるが、歴史の中で果たした役割を科学的な態度で見ることが必要と思う。特に開拓の功労者という一面だけを評価し、他の部分は触れずと云うのは方手落ちだろう。囚人酷使の部分は北海道開拓上の汚点でも有る。
屯田公園には屯田歩兵第三大隊本部跡の碑(碑裏面は阿部みどり女句碑)の他に永山屯田入植者名を刻した「永山屯田百年記念碑」と永山村歌を刻した「永山屯田開村百拾年記念碑」とが有ります。百年、百拾年記念碑は永山屯田会の手による。一番古い碑は「殉公碑」他では忠魂碑等と刻された碑ですが、「殉公碑」と云う言葉には違和感も無く好感が持てます。◇旭川市永山3条18丁目◇屯田公園
永山開村30周年に当たる大正9年に、祝賀行事と村政制定、開拓記念碑の建立、永山武四郎の永山神社合祀が行われ、開村之碑裏には400名の屯田兵名が刻されている。開村と云う碑は殆どの市町村に有るが、北海道が内的植民地として移住者により開かれた為に開村となるのだろう。このため遙か昔より此地に居住するアイヌ民族は地域社会より排除された。同じ植民発想の延長が軍国主義と結びつき大陸えの侵略的移民となるが、結果は誰もが知っている通り。文化的な装いは西欧化しながらも、武家社会の延長線上に有る野蛮を秘めた明治という時代は、姿形を変えながら敗戦まで続く。。この碑に限らず開村と云う言葉には当時の拡張的な植民思想が反映されている。◇旭川市永山3条18丁目 永山神社境内
毎年、永山屯田まつりで登場する直径9尺(約2.7m)の北海道最大の太鼓で永山屯田まつりの10周年を記念して作られた。胴は樹齢250年の秋田杉、鼓面は片面で牛の皮1頭分というスケールを誇る。太鼓の上4人、下4人の計8人で打つ姿と音は、あんどん山車も形無しの怒迫力で、屯田まつりのシンボルです。永山神社境内に有る「みやま展示館」で次の出番を待っている。◇旭川市永山3条18丁目 永山神社境内
「永山屯田太鼓」は1983年に、永山第3地区会館を拠点に発足し、以前は永山屯田太鼓発祥の地の木碑が立っていた。屯田太鼓20周年の記念として「地域内で生まれた郷土芸能=永山屯田太鼓」の発祥の地として、太鼓を模した石碑が建立された。ここには第3大隊第五中隊の碑も有る。あとは面白くて珍しいヤチダモの木もある。◇旭川市永山3条15丁目 ◇永山第3区会館
屯田兵の想いを受け継ぐ一つの形が「永山屯田まつり」で、たかだか20年程の歴史だが、旭川のビックイベントに成長した。伝統といえる程の歴史はないが、祭りにかける情熱は半端ではない。道産子はそのルーツを辿れば屯田兵と何かしらの関わりがあるのか、屯田兵として北海道に渡った人達の思いに共鳴できる部分は多い。ただ屯田の伝統や思いは意識して伝えなければ歴史の中に埋もれるだけ。だからこそこんなイベントは大切なのだ。
当麻町との境に有る高さ約30mの丘。名前の由来は北側斜面が明治24年から屯田兵の射撃場として利用されていた事による。標的があった所に杭が有るとの事だったが管理人は見つけられなかった。頂上には明治43年に古峯神社が建立され、昭和34年に新築再建されたが現在は廃社になった様で台座のみ残る。ここは火の守り神、安産の神様として信仰されていたという。◇旭川市永山町16丁目 ◇上野ガーデン内
永山3番線と国道37号線が交差するところに有る真言宗の寺院で、同じ境内に古峯神社(古峰神社)、稲荷大明神、金比羅大権現、辨才天龍王、コウシン、馬頭観音が有り一般的な寺院とは趣が異なる。古峯神社は射的山に有った神社と思われるが、他の神社もあとからここに移転してきたものか、以前よりあったのかは 確かめていないが珍しい光景。かつて仏と神は共存していたが明治の国家新道による廃仏毀釈などにより神社と寺院が強制的に分離されたが、ここでは江戸期と同じ様に仏と神が共存している。◇旭川市永山町10丁目
天寧寺にある鐘つき堂の名称で、アイヌ語地名をそのまま使用している貴重な施設。天寧寺は明治26年の建立で永山最初の寺院。鐘つき堂は約110年前に創られ釘は一本も使用していないと云う。開教100年の年に改修したおり、鐘つき堂の名称をキンクシベツ鐘楼堂としたと言う。松浦武四郎の"丁巳東西蝦夷山川取調日誌"には「キンクシベツ 右の方小川有。此川の手前に土人小屋二軒有」と、元々は今の西永山と永山の間に有った小川の名前の様ですが、此の名前が広域化し永山付近一帯を指すようになったと思われる。
◇旭川市永山4条20丁目 天寧寺境内
写真は旭川市立永山小学校の開校100年を記念して設置された板津邦夫制作「風の子」です。野外彫刻には上川支庁敷地内に寺田栄制作の「風景」がある。「せせらぎ通り」には「希望」作者不祥、流通団地側の「三保公園・流通団地2条4丁目」にも有るがこちらはタイトル、作者ともに不祥。もう1カ所は上野ガーデン内に有り、こちらも作者不祥。彫刻の文字を素直に解釈すると彫って刻んで立体的な形にした造形物で、鑑賞目的なら彫刻という事ができ、意外と身近にあるかも知れない。仏像などは崇拝の対象なので一般的に彫刻とは呼ばない。銅像は鋳型による作品が多いが、中には彫刻と呼べる作品も紛れている。◇旭川市永山3条18丁目
山神は山間に暮らす人々に信仰された神。地神は農民の間で信仰されてきた神であり、農耕神で田畑や山と里の境界に祀られていたが、寺社の境内などにも祀られる様になった。地神碑には農業に関係の深い神が祀られるが、開拓者の出身地域によって違いが有る。ただ民間神道として儀式化された神事が有ると云う。現在は宮司が祭事を執り行う事が多い様なので、民間神道の儀式を伝承する方はいないのでしょう。永山には9カ所(個人宅は除く)で地神が祀られているが、三区会館に有る地神が永山最古の地神(明治28年)という。地神に関しては「地神の神々」を参照してください。
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