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ここでは名寄市から下川町、剣淵町までのアイヌ伝説を載せています。伝説の数はそれ程多くはありませんが実際はまだあると思います。
名寄川と支流矢文川の合流部付近にはかつてアイタコタンがあって此地に生まれた名寄アイヌの伝承者、北風磯吉エカシ生誕之地碑(※最近の現地確認では未発見、倒壊か?)がある。興津復命書(M28年)によるとシプンオト(矢文川)を挟んで左岸に北風辰三エカシ、右岸にアイヌ伝承者として知られる北風玉二エカシが居住していたとあります『名寄には昔相当大きなコタンがあったが、今から五・六代ほど昔の頃、釧路から来た夜盗がこのコタンを襲ってきて、コタンの者が皆殺しになったとき、或る家の者だけが、キトウシヌプリ近くの小山にあるイコロブ(宝倉)の中に、家内子供を隠し食料を与え自分だけが北見の沢木に行き、名寄のコタンはもう滅びてしまったので、名寄には帰ることが出来ないと云うと、沢木の人々に慰められ、北見の幌内に行き、そこで女や子供をもらってそれを名寄に連れて帰り、名寄コタンの再興をはかった。それが今の名寄コタンの先祖である。それでどんなことがあっても、釧路の人とはつきあってはならないと』北風玉二エカシ伝。※なお矢文川の上流にある小山の矢文岳がキトウシヌプリで別名を「チノミシリ又はイノミシリ」と云い、コタンの人々にとって神聖な山でした。
『ここに小人と述べるのは、その昔、私共の方面にも住んでいたというコロポクン・クルのことをさしたのである。彼等は雨宿りなどの場合、丈高く広い蕗の葉一枚の下に五人もが入ったといわれているので、先ずは小人と呼んでおくことにした。彼等は中名寄に長く住んでから、千島へ移り住んだといわれているが、これは千島に帰ったのだそうだ。千島に帰った彼等は、アイヌ名を称していたといわれ、私もその二、三を伝え聞き知っていたのだが、今はもう綺麗に忘れてしまった』北風磯吉エカシ談・民俗芸能双書54 アイヌの民俗
『海岸各地で恐れられている痘瘡の神様も、山奥ではそれほど恐れられていない。名寄に昔からあったコタンの人達も昔から痘瘡にはかからないことになっている。それは昔から痘瘡の神様が天塩川を通って名寄川に沿って北見に行くときも帰りにも、サンルベシベを通って歩くが、いつも通る道だからその途中の人達の所は避けて通るから心配するなと、夢の中で教えてくれたので、他の地に行っても痘瘡が流行してきたら痘瘡の神様に、昔からの話をして名寄の者だというと病気にかからないという。この神様が通るときはたいてい夜中で、船を棹で漕いで上がってくるような音や人のガヤガヤする話し声がするが、でで見ると誰もいないで川水が流れているばかりであるという。又こんな時はパコロカムイが間違いなく川を遡っています』北風磯吉エカシ伝。更科源蔵・アイヌの伝説集より ※痘瘡にかからない理由としてパコロカムイ(疱瘡神)が通り道の名寄に感謝しているから名寄のアイヌは疱瘡にはかからないと言うとも伝えています。
名寄川の中流部に位置し一の橋市街に近い廃線となった鉄橋跡の下流岩場に残された地名。両岸岩場となって甌穴が見られる所で釣りの穴場かも。知里博士のアイヌ語地名小辞典によると「テルケ・ウシ・イ」で「跳ぶ・いつもする所」というが「いつもそこで踊る場所(古代の祭場)もあるという」がそんなに広い場所ではない。甌穴に関して『この岩の上に大きなツマゴを履いた足がぬかった跡があり、これは天地を創造したサマイクルカムイという神様が跳んでぬかった足跡である』下川町町史より
『天塩川と剣淵川の合流点に昔大きな沼が有って、ここには昔偉い神様がいるので、悪い病気が流行すると付近の人は皆ここに逃げ込んで難を逃れたという。どんな病気の神様もここの神様にあうと直ちに押さえられるので、ここまできたものは助かるという』川村ムイサシマツフチ伝。更科源蔵・アイヌの伝説集より
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