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以下は丁巳日誌と戊午日誌及び旭川アイヌ協会の小冊子「総首長 クーチンコロ」に有るクーチンコロに関して書かれた情報を元にしてその実像を紹介しようと言う試み。文献上では謎に包まれた部分も多い首長であるが、上川アイヌの近代から現代までを通じて精神的な支えとなった偉大な長老。サマイクル伝説のユーカラを伝承者してきた家柄で有り、シャクシャインの乱後に松前藩と対立した石狩アイヌのハウカセ一門の血を引くかもしれないと云う。寛政4年にペニウンクルコタンのメム(川端付近)で生まれ、父はラョアンテ、母は?妻ヲホロヘケとの間に兄チヤレミナ、弟ムシユサマ(門野モスサアイヌ)有り。長じて下サツホロ乙名・後サビテアイノの後を次いで石狩総乙名となる。ただサビテアイノがペニウンクルコタンの首長であったという確認出来なかった。松浦武四郎が訪れたとき家族は他に叔母サケニシが同居し他に親類シユウタレもいた。安政3年頃川端から神楽付近に転居していたが後の政策でまた川端(近文)に戻ることになる。武四郎との関わりについては別に書いたの省略。時代は江戸から明治に移るも強制労働や略奪的な支配は変わらずアイヌ民族の人口が激減。労働力が不足すると兵部省石狩役所は明治2年にぺニシンクル(上川地方)のアイヌの三つコタンを一か所に集つめ、「上川アイヌ全員は石狩浜に集団移住せよ」と一方的に通告。これに対し上川アイヌの重鎮クーチンコロは同年12月3名の供を連れ石狩に出向きその不当で横暴なやり方を正論で論破し、石狩浜集団強制移住計画を断念させた。新政府は開拓使を置きアイヌ民族の言語や生活習慣を禁じ和風化を強制する政策を採り、アイヌ民族の伝統的な狩猟やサケ漁を禁止してしまう。蝦夷地を北海道としアイヌの人々を「平民」として戸籍を作成し国家に編入する一方で「旧土人」と呼び差別した。しかしクーチンコロの行動は多くの同朋を勇気づけ、以後に起こる謀略的な土地搾取に対する抵抗運動に引き継がれていく。強制移住計画を断念させた後クーチンコロは歴史の表舞台から突然消えるが晩年は一人暮らしで寂しい生活を送られた様です。嵐山公園にはアイヌ民族の誇りを持って生きたクーチンコロを讃え建立された記念碑が有り、川村カネトアイヌ記念館にはクーチンコロの肖像画が有ります。なおカムイユーカラはクーチンコロの孫である門野ナンケさんが最後の伝承者。
松浦武四郎を案内したという総首長 クーチンコロという類い希な人物がいた。上川アイヌの石狩浜移住命令を断念させるべくクーチンコロと共に石狩に出向いた中の一人で、コタンのリーダーを継承したのが川村モノクテである。かれのあとを継いだのが川村イタキシロマだった。このイタキシロマの子がカネト(1889~1977)で母はアベナンカ。キンクシベツ(現旭川市永山)に生まれ、小学校卒業後は測量隊の手伝いをするなかで測量を学び、やがて測量技手試験に合格。鉄道員札幌講習所を卒業後、北海道各地の線路工事の測量に携わる。2年後に除隊し三信鉄道に請われ、難しすぎて引き受け手の無かった天竜峡~三河川合間の測量をアイヌ測量隊を率いて敢行。現場監督も務めて難工事を完成。三信鉄道開通後は樺太や朝鮮半島での測量にも従事。1944年に引き揚。戦後は測量の仕事を離れ、川村カ子トアイヌ記念館の館長としてアイヌ民族の文化保存に尽力する。
北海道の名付親として知られる松浦武四郎は安政4年と安政5年の二度にわたり当地を訪れている。安政4年は石狩川と天塩川の踏査、安政5年は残る内陸部の踏査で最初は上川から十勝に抜ける踏査であった。雪の残る未開の原野と渓谷を越えていく踏査行は現地のアイヌの協力なしには不可能で合った事は武四郎の記録を見れば一目瞭然である。その中心にいたのが上川の総首長クーチンコロであった。安政4年の石狩同行者は総勢は河口部から含めてクウチンコロ、トミハセ、セッカウシ、アイランケ、ニホウンテ、イハンハカル、シリコツ子、ハリキラ、イナヲアニ、イソテク、ピヤトキ、シリアイノの12人がそれぞれの居留地を中心に同行。安政5年の石狩河口部から十勝越えではクーチンコロ、イソラン、サタアイノ、サケコヤンケ、イコリキナ、タカラコレ、エナヲサン、ノンク、クラウンテ、シリコツネ、セッカウシ、ニボンテ、イワンバカル、タヨトイ、アイランケ、イソテク、イヤラクルの17名(十勝側のガイドは含めず)がそれぞれ役割を決めて武四郎の踏査行に同行している。予定では浜回りを除けば清水迄の処を粘って大津まで行ったのは、運上屋と役所は彼らには信用の置けない所であり、武四郎がいる所で確実に手当を受け取る事を考えての行動とも思え、冷静に先の事を思慮しての行動で、首長としての努めを果たしたので有ろう。それとは別にクーチンコロは弓や槍の名手の様で有り、武四郎の紀行文の中に度々登場する。これらの記録からはクーチンコロが知、武、弁の三要素を全てそなえた首長で有った事が判る。
酋長と呼ばれている言葉は「コタンクロニシバ」の意味を訳した言葉ではあるが、アメリカインデアンと区別するためコタンクロニシバを「首長」として書く事にする。念のため付しておくが土産取、小使、乙名、総乙名の名称は和人によるアイヌ支配のため設けられたアイヌの役職であり、アイヌ本来の役職では無い。ただアイヌ社会のトップに立つ人だけに人望はそなえてはいるが、視点を変えると同族と和人との板挟みとなりその心痛は想像を絶する辛い立場である。
アイヌ民族に関して和人の侵した罪悪とアイヌ民族の悲劇について、道民の殆どは黙殺するのが一般的である。その理由は推して知るべきで我々和人の先祖達が侵した罪を知っておりその後ろめたさから肯定も否定もせず黙殺。出来るだけその事には触れない、触れられたくないと云う事の様に思われ、この壁は想像以上に堅い。先住民族に関する権利宣言が出されて以後少しは発言しやすい雰囲気も出てきた。中にはかつて管理人の上司(警察官僚の天下り)で「あんな土人の事言ってなんになる」と吐き捨てた方がいた。現在でもこんな人が会社の中で巾を効かせているのであり差別社会の基本的構図が変わった訳では無い。そんな中でアイヌ支配を確立するため和人社会が侵した犯罪行為を正視する(特に和人)には勇気が必要かも。その犯罪的な行為を信じられない方は松浦武四郎の著作を一読されん事を。その実態は政治犯を含む囚人の虐待やタコ労働と共に暗黒の北海道史。
1899年に北海道旧土人保護法が制定される。立法の名目は「アイヌ民族の保護」「救済」であったが、当時の開拓使は「給与予定地」として払い下げを拒否、第7師団建設を請け負った大倉組にアイヌへの給与予定地を払い下げ、アイヌへの給与地の8割が奪うという土地詐取事件が起こるがこれは政商と癒着した開拓使の官有地不正払い下げで(以後2次、3次と形を変えながら続く・旭川アイヌ民族史に詳しい)近文コタンのアイヌに対し天塩への移転を強要したが、近文アイヌは猛反対してこの地にとどまった。時代は師団の建設と開拓者流入に伴う和人の増加と云う中で、差別と同化政策がなりふり構わず強行されて行くが、土地詐取への抵抗運動は、1934年の旭川旧土人保護地処分法の制定となって一旦停滞するが事になる。ただ給与地は農業を行うと云うアイヌにだけの政策であり、それ以外については生活手段全てを奪われたまま無権利、無保護の状態で放置。農業に上手く適応出来たアイヌは稀であり、それは多くのアイヌには死活問題であった事を示す。アイヌの土地要求と裁判は続き、アイヌの持っていた共有地は学校の敷地・鉄道・道路軍事工場に貸し出され、1956年に北海道林産試験場に売り渡された。最高裁はアイヌ民族共有地を食い物にしてきた過去を顧みることなく、その訴えに門前払いという仕打ちで答えた。最高裁は長州閥の暗黒史と和人の利権を意図的に守ったと云うことか。
アイヌ神謡集」の編訳者として知られる(1903-1922)登別に生まれ、母の姉金成マツの養女となり旭川で13年間を過ごした地に文学碑が有ります。大正7年来旭の金田一京助の勧めで大正11年5月に上京。金田一家に寄寓しながら校正作業にあたるが、その年9月、19歳と3ヶ月で心臓病で亡くなる。「アイヌ神謡集」は翌年出版され、碑にはその一文が刻まれている。
アイヌ木彫熊の先駆者として知られる。近文で生まれで熊打ちの名人、大正末期の頃から木彫熊の創作を始め、昭和24年に49歳の若さで他界するまで20有余年に亘り数々の作品を残す。熊を知り尽くした名工なくして、近文の木彫り熊はなかったでしょう。オサラッペ川の橋を渡り、嵐山に入ると「松井梅太郎の碑」が有ります。レリーフは彫刻家加藤顕清の作品である。
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