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簡単な観光アイヌ語地名の紹介です。詳しくは知床博物館発行の「知床半島の地名と伝説」が写真入りの解説で場所の確認は容易。知床博物館か知床自然センターにあると思います。※地名解は北海道蝦夷語地名解 知床日誌、蝦夷日誌とあるのは松浦武四郎の戊午志礼登古日誌、蝦夷日誌より引用です。知床だけをまとめた「松浦武四郎知床紀行」が携行には便利でしょう。管理人はアイヌ語地名と武四郎ファンですが、アイヌ語やアイヌ語地名の専門家では有りません、そんな訳で間違いと勘違いは有ると思います。詳しくはご自身でお調べください。
地名解“石の彼方なる川 朱園村と称す”今は峰浜という。峰浜を流れている川をシマトカリ川という“tukar⇒手前”という意味だが、地名の場合は岩場から砂浜に変わるような所を言う。岩の手前の川の意味。峰浜はキャンプ場がありここを境に海岸は岩場と砂浜に分かれる。すぐ近くにウナベツ温泉があります。
山田秀三氏の北海道の地名 によると“海から見て前の川⇒サクシペッ”“奥の川⇒マクシペツッ”“その彼方の川”という具合に海側から見て奥の川の更に彼方に有る川と言う意味と“単純にo-kus-pet”で川向うでも良さそうですが単なる地名ファンの僕には難門。
地名解“灰川 古く噴火せしとき全川灰を以埋めたりしが今灰はなし”と、ウナは火山灰の事らしい。海別岳は古くは富士山の様な成層火山であったが、大規模な山体崩壊で今の形となった。麓には名残の小沼が多い。
斜里町史では野の上にある川、河口は岬の先端近くに有り釣りに訪れる人も多い所だが、知床日誌では“岬の突き出た所にある川なので名づけている・・シレトコの一番手前の岬なので名付けている”と。これから云えば“not-ka-oma-p⇔ノッカオマㇷ゚”岬の上にあるものという事もあるかも。
別名チブス、ケチピシケイ、ポロトマリとも。知名解“船積せし所処破船の板を船積みせし処”上原熊次郎地名考ではポロトマリ番屋休所と、松浦武四郎の蝦夷日誌でもポロトマリで当時は番屋とアイヌ住居有りと。チプトマリは港の名前として残る。“cip”なら単に船泊となるか。今は「日の出」と云い釣りのスポット。
チカㇷ゚エワケ“鳥住む所”の短縮語という。この地域は鷲の多い所で地名解は“鷲の巣”と、橋の名前を於近橋という。同じ鳥でも鵜の説もあり、知床日誌では“川上に沼のような所あり、昔から毎年鵜が卵を産むので”と記す。羅臼にも有る地名だがこちらは鷲という。
地名解“幕を張りたる処” 間宮林蔵がつけた名前とか、マクはテントの事でオイは張る、合成語らしい。知床日誌では“むかし判官様(義経)が幕を張ったので名づいたという”と記す。フンベから真鯉にかけ義経伝説が多い。
普通は“大川”と言う意味だが、この辺では大きな川、川の大小は周囲の川と比較して言うので大川と言っても小さい事も有る。知床日誌は安政5年当時のアイヌコタンが置かれた悲惨な様子を詳しく記録に残す。かつてはイトウも生息したというが既に絶滅(自然遺産の名が泣いている)している、鮭の遡上は容易に観察出来る川。
地名解“蝦夷松多き処”河口近辺に蝦夷松が群生していたのだろう。名瀑オシンコシンの滝がかかっていますが、蝦夷日誌からはオシュンクシは今の弁財湾付近にあった番屋付近の事の様で岬は“チャラセ岬”と、知床日誌では“オシュンクシ オシュンクシエト”と記録、岬の西側に有る小さな岩岬を“チプシケヲロ・昔判官様の船が難破したので名づいた”とも。斜里側で最初の本格的な岬と滝がある観光スポット。
地名解“岩山より落ちる水”確かにオシンコシンの滝が断崖から滑る様に落ちている知床の入口にある名所です。旧国道が岬の上を経て4km程高台に入る。滝とオホーツク海を見た後、知床の森を気軽に観察しに行ってみましょう。
地名解“瀧の川”オシンコシンから宇登呂側に有る川名で三重の滝、別名三段の滝という名の滝が懸かる観光のポイントで“河口に滝がある川”という意味だ。知床日誌ではむかしアイノたちが敷いていたキナ莚を此川に投げたので名付けたと、アイヌの故事をあげているが、この地名との関連で有り、地名の意味とは異なる様だ。
地名解“鯨川”古くアイヌ村在りし処なりと。知床日誌では“むかしこの川口に鯨が寄り上がったので名付けている”とある。知床は今も鯨が見られる所です。ただ“oma”の入る“nay”川(沢)で“鯨の・入る・川(沢)”となり、常識的にはあり得ない地名ですがよくあることです。
地名解“砦,砦跡”どう見ても岬の岩の上に砦を作れるような感じはしないのだが遺跡が発掘され人が住んでいたことがはっきりしている。伝承によると、この砦にはアイヌ、オロンコ岩にはオロッコがいて対峙していたと伝えらる。通称亀岩!確かに亀の姿によく似ている。
昔はペケル“明るい所”と云い、後にペレケイ“破れている所”と呼ばれたと云う。知床日誌には”源に大岩あり岩の割れ目より水が湧出する”とある。ペケレ川源流には岩の割れ目から噴き出ている湧水があり、かつてオロンコ岩附近にも湧水があったとか。ただ事実上は三角岩の割けている部分を言ったようだ。
宇登呂三角岩の北側に有る大岩の名称で高さ20m程、階段があり岩上からの展望が良い。オロンコは“オロロン鳥”の事、今はカモメに占領されている。オロンコ岩にはウイルタ《アイヌとは別の民族で樺太の先住民族ですが、侮蔑した呼び方のオロッコの方が一般には知られ日本史では抹殺された民族》という説もある。それを知るとオロンコ岩と何となく呼びずらい。
“その間をわれらが通行するところ”と言う意味だが、知床日誌では“岩間を船が越る義か”と書いている。様変わりした現在の地形をからは推測する事も難しいが、その名残は残っている。オーロラファタジーの会場ともなる。
“槍の形をした岩”宇登呂岬の先端にある三角岩。裏側が“ap-atte-us-i⇔アパッテウシ⇒釣り鈎を・垂れる・いつもする・所“とも。知床日誌では“小岩の岬”である・・“むかしアイヌの祖先がこの処で針を垂らし大いに獲物をえた”と記す。斜里町はサマツケワタラの西側としているが、名釣り場としては釣り師としては不満。
地名解“岩間の通路”僕が初めて宇登呂を訪れた頃は、宇登呂より幌別川までの間は素堀のトンネルがあるだけで巨岩が海岸に迫り大岩が累々とする岩礁帯、まさに釣り人天国だった。言葉道理ならば“岩間【悪い越路】の通路“という事、運のない釣り人にも同じ。
“親の岩”宇登呂から幌別川に向うと、切り通しで取り残された二つの立岩があり、手前の大きい岩の事を指すと思われる。二つの立岩に以前は素堀のトンネルがあった。今は便利にはなったが景色は変わりその面影を残すのみ。
“水に浸かる岩”宇登呂から幌別川に向うと、切り通しで取り残された立岩があり二つめの岩を過ぎた付近から始まる岩礁帯。沖から陸に向かい多数の溝が切れ込んで干潮時に岩に乗れる。昔はカジカ釣りの大穴場でした。
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