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『道東美幌から北見相生に行く相生線の活汲(カックミ)駅(廃線となって20年以上)の上流の川向に、一個の立岩があるが、文化神サマイクル神が死ぬときに、自分の姿を石にしておいていったのだと行って、ここを通るものは酒を持っているものは酒をあげて祈願し、家で行う祭りの時も木幣と酒をあげることになっている。同じ川筋の美幌町野崎の川向に立っている岩(昭和年代に道路工事で破壊)もポンオキキリマ(サマイクルカムイの臣の子供)であるといって、これにも酒をあげる』※美幌町・日下ユキフチ伝・更科源蔵編・アイヌ伝説集より。
『網走川岸で一番大きくそして一番大切な所は、リーピラチャシ(高い崖の砦)で、マクンナイヌカップでは第一に祈りを捧げる事になっている。それはオンネイナウサン(大きい幣場)だからである。チャシの中でも、ピラオッマコマナイチャシ(崖の後に有る砦)はポンイナウサン(小さい幣場)と称して、最後に捧げる事になっていた』美幌・菊池儀之助エカシ伝・美幌町史附録・アイヌ伝承と砦より。
『高凡二十五六丈、巾弐丁計峨々たる山の下(弁慶岩・高さ約80m・巾約200m)、岩の平なり。白岩崩。其下流れに沿いて一条の歩行路有。土人等此処にて木幣を削りて是を奉り、ジュジュ(低い声)と安を祈りて過る』松浦武四郎・戊午日誌・上巻※上記伝説の一端を裏付ける記録です。
網走川東北岸断崖の大地に二條の壕があり、外側のは、やや直線的に、内側のは弧線状をして大小二つの楕円形の地域がつくられている。『美幌アイヌが戦争した時に、コタンの女、子供(一説には首長の妾)を隠すのに使用されたシャシで有るとの事である』美幌町・菊池儀之助エカシ伝・アイヌ伝承と砦より。
『津別の川岸(現・津軽町)ピラチャシ(ツペットウンチャシ)などはその時プンキ(番人)を置いて夜見張りをしていたそうで、もし敵が来たらそこからオトイパ(声で知らす)をやる。また敵の人数によってハンゲオトイパ(近い声、敵は少ない)トエマオトイパ(遠い声・敵は多い)等をやる』美幌・イアラモンネシエカシ伝・米村喜男衛・北見郷土史話『このチヤシはツベツコタンを中心として構築され、これを城とすればコタンは城下のようなもので、この一群をツベツチャシクル(津別砦の人達)といっていた。ここは一名のサパネクル(首長)がおり、その配下にテッケシ(手下)がいる。このテッケシのテッパ(手下の長)があった。この役割は主として他コタンからの襲撃を防ぐ事で、ひるは狩りや漁をしてコタンの生活をたすけ、夜はプンキの役をしたのである。もし敵を発見したら直ちにオトイパ(合図の声)を発する。このオトイパにはハンゲオトイパとトイマオトイバとがあり、ハンゲオトイバは少数の敵を知らせトイマオトイバは多数の敵を知らせるのであるが、この声を発するのは女の役であった。原始時代には同族間にも常に闘争の絶え間がなかったのである』※美幌町・菊池儀之助エカシ伝・真目四郎・津別町史・※宇田川洋・アイヌ伝承と砦より。
『イ(物を)ユンパ(細かくきざむ)コタン(村)。ここに、昔美幌の菊池一族の先祖が住んでいて、ギョウジャニンニクを細かく刻んで乾かして暮らしたという言い伝えが有った。別にここをペニとも、ポン・ヌッカ(小さい・野原)ともいい、非常に豊かな村として聞こえていた。そこでは年一回位、宝物を出して風に当てたが、その際にこの小さい野原の端から端まで六本の革紐を張って、それにいっぱい宝物をかけたといわれ、十勝の方から来た客人が「なるほどペニ・ウン・クル(川上・の・人)は長者だ」と驚いたという話が伝わっている』知里真志保・網走郡内アイヌ語地名解※宇田川洋・アイヌ伝承と砦より。
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