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『大山と落石山は親子山だそうです。その昔、落石山は大山と斜里岳との間に誕生した山だといいます。なぜに大山が斜里岳と別れたかというと、斜里岳は非常に嫉妬が深く、かつヒステリーであったからだといいます。大山は若くて華麗な斜里岳を非常に愛していたのですが、ある時、大山が、藻琴山と話し合ったことからして、斜里岳の嫉妬となり、大山の背の低くて男ぶりの悪いのをけなすようになりました。その果てはヒステリーが高じて、噴火するようにさえなりましたので、大山は思いきって愛子の落石山を連れて当地に落ち着いたのだと申します。その後斜里岳はウナベツやその他の男性から結婚を申し込まれましたが、前非を悔いてヒステリーの噴煙をやめ、前夫大山のためにその貞操を守っているのだといいます。』紋別市史編纂委員会・1958年・紋別の伝説より。
『大山は沖漁に出たとき、紋別の方向を知らせてくれる大事な山で、昔は山に向かって祭壇を作り祭りをしたという。チプカニイワとは、昔、津波があってあたりが水浸しになったとき、この山の頂だけが丸木船の形ほど見えたので名付けたという。』更科源蔵・紋別市のアイヌ語地名解※元々大山はポロシリと呼ばれていたようで大山はポロシリを直訳した山名。アイヌ民族にはチノミシリであったようです。紋別の津波伝説は、松浦武四郎の戊午日誌の中に“ショウマナイ、この所は川もなし。その名義往昔、海将(津波)ありし時、洪濤この所まで大船を押し上げしによってこの名有りと”大津波の伝説はここにもあった。
オホーツク海沿岸、紋別市の現南が丘市営球場の海岸より附近にチウエンチャシと呼ばれているチヤシ伝説があったが実在の痕跡はないらしい? “昔のこと、日高から来た者が紋別領の山に入って、勝手に猟をしたので「自分たちも大事にしている獲物を、勝手に捕るとはとんでもない野郎だ」とチャランケになつたが、相手の方が負けて逃げるのを追いかけて、沢の所で捕まえて木に縛りつけ、ひどいめにあわしたところ、悪かったと宝物を出して謝るので許してやった。ところがまもなく相手の方では、大勢で敵討ちにやってきて、砦のものと戦争になった。この戦でどっちが勝ったか負けたかはっきりしないが、砦が壊されてしまった。それから後のこと。夏になるとこの砦のところで裸の子供が二人遊んでいる。元紋別の者は紋別の子供だと思い「あんなところに子供だけでやるものでない」と注意したので、紋別の人が行ってみると見知らない子供なので、元紋別の子供と思い「お前達の子供だろう、あんなところに子供だけでやるものでない」と注意したのでどちらの子供でもないということがわかり、きっと昔、戦争した時に隠した宝物が、子供に化けて出るんではないかと気持ち悪がった。それであそこをチウエンチャシ(我々の悪い砦)と呼ぶようになった”更科源蔵・アイヌ文化。なおアイヌ伝説集・野沢和助エカシ伝では戦争相手が「日高から来た者」が「日高だか十勝だか」と有り。松浦武四郎の記録には“城跡、負けて逃げ去りし城跡という”と有り。
オホーツク海沿岸上渚滑四三線地先の渚滑川中に長さの七~八間、高さ二間ほどの大岩が有る。これをカムイポチといって、アイヌの祖神オイナカムイ(サマイクル)が天から下り、蝦夷地を統治していた頃、船に乗って各地を巡って歩いているうち、その船をここにおいて山に入ったが、その船は神のものであるから腐ることなく石になったので有る。舟木弥吉エカシ伝・更科源蔵・アイヌ伝説集。※松浦武四郎の戊午日誌中巻にカムイポチと同じ?と思われる所を“チャシコツ”“是むかし神の城跡といえり”という記載有り、カムイポチ遺跡の事と思われる。
渚滑川の東側、立牛のローソク岩にまつわる伝説。長いので一部省略した。『ローソク岩は立牛岳の山神をまつる祭場であり、自然の岩をそのまま祀ったものであるといわれている。このローソク岩には沢山の蛇がいて神の守護をしている。立牛岳の山神のお使いはシカであって、立牛にはたくさん生息していた。ある日山神が鹿にまたがり、鹿の群れを供にローソク岩のところまでやってきた。それを木立の陰で見ていた悪魔は、そのおおらかな姿を見て腹を立ててしまい、胡桃の弓に胡桃の矢をつがえて大空に射ちはなった。すると山の木原から胡桃の旋風が起こり鹿の群れを倒した。山神を乗せていた鹿も吹き飛ばされてしまい、地面にたたき落とされた山神も大怪我をしてしまった。これを見た悪魔は大喜びで第二の矢をつがえて立牛川に射こんだ。立牛川は瞬く間に濁流となってしまった。立牛川で遊んでいた鮭は泣きながら海に逃れていって、この事をカムイに告げた。サケから報告を受けたカムイは魔よけ軍である蛇を立牛に差し向けたのである。さすがの悪魔も蛇にはかなわずカムイに謝罪。カムイは罪の償いとしてローソク岩を造らせ、そのローソク岩を山神の住まいとして与えた。カムイは更に山神を守る軍勢として蛇をローソク岩においたのある』紋別市史編纂委員会・紋別の伝説より。
『紋別コタンの首長ヘイシュクは、常呂まで勢力を持つ大首長である。ヘイシュクの子は日本名を吉野愛吉という。愛吉は父ヘイシュクがかって和人と交易していた頃、和人から入手したヨロイなどを持っており、それらの宝物をしまっていた。ところがいつ頃からか夜になると、風もないのに押し入れの中でガタガタと不思議な音がするようになった。その頃病床にあった愛吉は「私が死んだあとに、このヨロイや宝物が粗末になってはいけないから、誰にも知らせずに大山に埋めてくれ」と二人の部下に頼んだ。部下は密かに大山に埋めた。大正7・8年頃の実話であると野沢和助さんと大石さんが語った』紋別市史編纂委員会1958年・因幡勝雄・紋別の伝説1975年。※松浦武四郎はヘイシュクとその父親・サントアイヌより渚滑の事を聞いて記録(戊午日誌中巻)に残している。年代から云えば比較的新しい話しで、昔話として掲載するにはためらったが・・「ヘロキカムイ」という別話も伝えられている。
『弁天岬は古名ヘロキカムイノタサムといい、この弁天岬に太古アイヌから聖者と崇められていたフユイネタルという占者がいた。このフユイネタルが惑梁明の祈りの時、天の一番上方にある星の陰から「我は北海の守り神なり、元の名トマリ、今の名モウペットモシリ村の将来を思うて、魚の卵と帆立貝と黄金とを持って渡りゆかん。神の座設けて吾を齋き祭りれよ」とのご託宣を受けた』紋別町史1944年塩見為紀治※フユイネグルに関する最初の記録です。以後に出てくる伝説とあわせても、アイヌの信仰を弁天社~厳島神社へ誘導する信仰操作が有った事を思わせる。同様の事はイコランケシという不思議な技をなしえる巫者が、伊勢大神宮の御祓いを付けると何も出来なかった話も、和人の神が格上という意識付けに利用されたものか?
紋別市にはアイヌ伝説が比較的伝えられているようですが中には和人伝説ではと思いたくなるような内容の伝説も少なからずある。古老より直接聞いた話を修飾した形で掲載されている場合が多いようで、伝承者の名前が分らない場合の信頼度は数段低く見て良さそうである。ここに乗せていない伝説のタイトルのみ掲載しておく。コムケ湖の息つき穴、シャマリタッコブ、シマララギ、紋別の孝子、オマイシュイ、ウエンヒラリのカワウソ、ウチウノイエ、オンコ松の神など。「アイヌ伝承話集成」に掲載有り。
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