☆更新情報など☆
トップメニュー、レイアウトの一部変更。
『其名義昔しクスリ、トカチ等の土人多く当所ヘ戦に来たりしに、皆此山の上より諸方を眺望をするよし也。よって此名有と。インカルウシは物見の事を云り。』松浦武四郎・戊午日誌・中巻
『遠軽にあるインカルシペという岩山は、イクレシュエという首長のつくった山で、イクレシュエはこの山の上からオホーツク海に押し寄せる春の氷の様子を見張っていて、アザラシの乗ってきたような氷が浜に見えると、アザラシ狩りに出かけていったものである。』美幌町・菊池儀之助エカシ伝・更科源蔵編・アイヌ伝説集
『湧別川には全道的に名の知られたイクレスイという英傑がいたといわれ、瞰望岩は彼の砦だったといいます。』更科源蔵・北海道アイヌ語地名解 ※イクレスイは厚岸の伝説「厚岸の半神半人カスンデ」の中でイクレシュエ一族として登場。宝物狙うカスンデの企みで一族の首長が殺されるが、イクレスイ一族が仇を討つ内容となっている。
願望岩はインカルシペ(見張りをするところ)という意味のアイヌ語です。昔、この川下の湧別アイヌと上川アイヌが戦争をしたとき、湧別アイヌに利あらず負け戦になって、この岩まで逃げました。勝ち誇って岩を取り巻く上川アイヌに対して、もはやこれまでと湧別の首長が月の神に救いを求める、にわかに雲が湧きだして大雨が降り出しました。湧別川はみるみる増水して、上川アイヌはその洪水に押し流されて全滅してしまいました。その時の湧別の首長の顔が今も岩に残っているといいます。遠軽町・白井洋子氏伝・更科源蔵・アイヌ伝説集より。マニアの間では神霊スポットとして有名なところでもある。
海岸段丘床にあるシブノツナイ竪穴住居跡で海岸に近い東寄りの所に高さ約4~5mの崖があり、下は湿地帯。この崖と湿地の境に1ヶ所だけ昔から湧き水があったという。昔、松前藩の役人が蝦夷の巡視途中一帯の穴居遺跡を見た後、渇きを覚え水を求めるも、付近に清水はなく随行者が困っていた時、アイヌがこの湧き水を汲んで献上した事から、この水を『松前藩の御前水』と呼ぶようになったという伝説の水。明治三十七年ころ湧別コタンにいたホテスパという老アイヌが伝えた話という。湧水マニアとしては見逃せない話なので、附近を探してみたが湧水は発見に至らなかった。近くに余り名を知られていない原生花園がある。◆湧別町字川西 シブノツナイ竪穴住居跡付近?
チトカニウシの山脈を境に北見国は、湧別アイヌの狩猟区になっていた。湧別川を遡って来る鱒や鮭の群れ、シカなどの獣も豊富で、長い間平和な生活を営んでいた。あるとき十勝アイヌの群れが、上川を経て湧別アイヌの猟区に入り込み、猟区権を犯したので談判したが、聞き入れないばかりか暴威を揮って、なおも進もうとしたので、ついにチトカウシの山を境に合戦が起こった。湧別アイヌは防戦に努めたが、強くて凶暴な十勝アイヌにひとたまりもなく追い立てられ、山を超え谷を渉って後退を続けた。各地から援軍を得てセタウシ山に拠って逆襲を企て、幾日となく悪戦苦闘を続けたが、予期に反するほどの死傷者を出し、無念にもついに山砦を捨てなければならなかった。だんだん後退して最後の砦インガルシに拠って必死となって防戦に努めた。出ては攻め、砦によって敵を追い落とし弓矢のうなりものすごく、肉弾相撃つ激戦が続けられ、勝敗はいつ果てるともなかった。だが、勝ち誇っていた十勝アイヌは、一挙に湧別アイヌを全滅しようとして、ある夜暴風をついて進んだ。両軍最後の決戦がまさに行われようとしたとき、夜半にわかに湧別川が大洪水となり十勝アイヌは濁流に呑まれ、溺れて死ぬものは数知れず、士気は喪失し、生き残ったものも討たれ、あるいは捕らえられ、暁とともに雨の晴れわたるころには、湧別アイヌ側に勝利の歓声がどっと上がったのであるが、湧別アイヌもまた生き残った者は少なかった。その後湧別アイヌは下社名渕に移って住んでいた。ある夏、老人、子供を残して、働けるものは丸木舟に乗り、川を下りオホーツク海に出漁したが、大嵐にあい一人として帰るものはなかった。後に残ったものは悲しみの幾日かをすごし、親や子供や兄弟を慕ってコタンをあとにしあてもない旅に出た。遠軽町史・1965
チトカニウシの境界を越えて山上川アイヌが湧別アイヌの狩猟区にはいる事もあれば湧別アイヌが上川アイヌの狩猟区にはいる事も有り、それが原因で争いになったという部分以外は十勝アイヌとの闘争と同じストリーなので省略。
其名義は昔、判官様此処にて弓を引いて腕力を試み給ひしと言ヘリ。チトカニウシとは弓のささりし木が有りと言う儀也。神霊甚だしと。松浦武四郎・戊午日誌・中巻
伝えられた一番古い記録(管理人の知っている限りで)は松浦武四郎の記録ですが、此処ではクシロとトカチとなっており上川の名が無いのは気になります。
トップメニュー、レイアウトの一部変更。