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知床は北海道でもアイヌ語地名がが多く残された地域で、現存する地名の殆どがアイヌ語由来の地名。知床の歴史や自然を地名の由来を通して知る事も知床の自然体験やアウトドアーを楽しい思いで深いものにしてくれるだろう。知床半島の先端にはかって古代人が住み、晩末の頃にはコタンが存在していた事は知床日誌にも有るとおり。
松浦氏初航蝦夷日誌で“エシヨ。イソヤとも云り此処を則シレトコと云なり。この岬の上に標柱を建たり。是より北西場所舎利(斜里)領、南根室としるしたり”この辺までは当時のシレトコで、東西蝦夷地の境界とされ、今は羅臼町と斜里町の境界より少し斜里側となる。戊午知床日誌ではシレトコについて“シラライトコの詰まりで、大岩けわしい所の端という意味である”と記す。イソヤは“iso-ya⇒波被りの平磯になっている陸岸”の事。標柱は今は壊れているとの事だが、知床博物館の調査で今の啓吉湾らしい事が判っている。知床は一般的に地の果てと思われている方が多い様ですが、知床には“sir-etok-o シレトコ”と“sir-etok シレトク”の二通りあり、どちらも地の先=岬の意味だが“sir-etok-o”が強調した言葉ということです。
知床岬の海成段丘には続縄文期、オホーツク文化期、アイヌ期の遺跡があります。特に斜里側の啓吉彎、はさみ彎を望む段丘面には続縄文期、オホーツク文化期の竪穴住居跡と思われる多くの竪穴があるというから驚く。原生の自然が知床の謳い文句だが、二次的な自然は知床にも多い。
本来はキナウシと呼ばれた所の様です。キナは草、ウシは群生すると言う事で昔から草原状になっていたのでしょう。前は広い平磯、後ろは屏風の様な大岩壁で小さな入江を作っている。赤い大岩が二つありその内の一つは空洞になっていてくぐり抜ける事が出来る様だ。赤岩のアイヌ語名は分かりませんが、戊午知床日誌にも赤岩とキナウシについての記載有り。
昔、羅臼のアイヌの娘が、夜夢に見た青年に恋慕い悩み続け、そして娘はこの半島を南に進むにつれて広大な原野があり、青年はその原野の端で娘を待っているものと信じた。悩み疲れた娘はこの思いを母に打ち明けた。母は娘の希望を聞き入れ二人で密かに南に向かって歩きはじめた。まもなく通りかかったのがこの岩。母はこの岩は念仏を唱えながら越せばなんとか越せると聞いていたので、娘に念仏の仕方を教え岩を登らせた。数十分もかかってようやく娘は岩の頂上に達し、振り返って別れの瞳を母に向けた。見下ろす娘の瞳にも、見上げる母の瞳にも朝の白露のごとき涙が光っていた。以降、この岩を念仏岩というようになった。伝承の内容はかなり省略してありますが、松浦氏や永田地名解にはない地名。良くできた話だが羅臼のアイヌと云うのであれば此処を通った事に矛盾が有り、念仏という言葉からも伝承というのは信じがたいのだが。
女滝と男滝のある所だが戊午知床日誌では“ニカルウシ(メオトタキ川)此処は屏風のような大岩に、白布を晒したような大滝が二すじ懸か。ニカルウシとは木を取るに多しという意味である”と“ni-kar-us-i”木材を採った所なのかも。滝は女滝の事、高さはおよそ120m前後で二筋に分かれて落ちる見事な滝。釣りのシーズンに瀬渡しで訪れる釣り人以外は人の姿を見る事はありません。
松浦氏の蝦夷日誌に“クチャコルシ小さな谷川あり、この辺り岩山でけわしい難所である”とそれらしき名前が載っている。岬の際に有る谷の中に滝が懸かり 、岩雪崩の後のように岩が累々と転がっている。今はその光景から、クズレの滝と呼ばれています。ここはピンクサーモンの釣り場です。
永田地名解では“ペレケ・ノッ破岬”松浦日誌では明るい岬。ペキンノ鼻は小さな草原の岬で“peker-not⇒ペケレ・ノッ、明るい=木が生えていない・岬”と考えられ今の岬とは有っている。鼻はアイヌ語で“etu”で鼻=岬の意味でも用いるが日本語でも岬をいう事あり、ペキンノ鼻の『鼻』は岬の意味。
永田地名解には該当する様な地名は見あたらず、松浦日誌の中では知床日誌に有る“メウシホル 日陰の洞窟”の事とあるのがそれか“メウシホル⇒寒くある洞窟”?普通は空洞が一つならば窓岩、空洞が二つならメガネ岩という事が多い様です。斜里側の方にも同じ様に空洞を持つ伝説の岩が有る。
永田地名解では“モイレ・ウシ静彎 ピリカトマリ と同ジ”と書いている。“静かである・入り江”で良い停泊地として利用されたので有ろう。戊午知床日誌ではモエレウシ“モエレは遅い(汐が?)、または休むという意味である”と記し根室アイヌが何時も宿泊に利用していた入江だつた様です。今は此処をモイルスと呼び、磯渡しで秋にはサーモン狙いの釣り人が訪れる事がある程度で以外は静かな入江。カヌーなどで上陸する人は希にいる様ですが。
メガネ岩と同様、永田地名解にも松浦日誌の中にも該当するような地名は見あたらず。岩の形からタケノコ岩と呼ばれている様です。かなりの高さがあり遠くからもよく目立つ岩で、まず見落とすような事は無いでしよう。沖からも目立つ岩で遠くから見ると確かにタケノコです。
昔はポロモィと呼ばれていたという。戊午知床日誌では“ヲケタウシ むかし厚岸のアイノが塔印(墓標)の木をもって魚を焼いていたところ、そこの岩がはね飛び、驚いて後ろに倒れ両足を投げ出したので名付けられたそうである。ヲケタは足を出すと云うことである“と。ただ“ヲケタ”の意味は管理人には判りません。なぜ化石浜は千島火山帯の半島知床には珍しく此処では化石が見つかる事から付けられた地名。ポロモイは大きな湾、大きな入江の事で確かに湾のようになっています。
斜里側に海別川というのが有るがそれと同じような意味か?海別川を永田地名解では“灰川 古く噴火せしとき全川灰を以埋めたりしが今灰はなし”と。ウナを火山灰として“una-ke-pet⇒灰をかけた川”?と乱暴に推論。ただ戊午知床日誌では『ウエナキ本名ヌエナキという・・・・昔厚岸のアイノがここで櫂を漕いでいる時に尻餅をついたのでこの名がある』と、ただウエナキの意味が“nuye⇒多くある”の事かとも思ったり、管理人ではお手上げ。
昔、知床半島の岬に接続する三里の海岸に唐の高僧が漂着し、アイヌの長の宿に逗留することになる。高僧は仏法を日本に伝えようと渡航したが、大和の国に渡れず、また唐渡の故郷にも帰れず、虚しく日々を送っていた。長の家には幸か不幸か、美しい娘がいて、何時しか僧と娘は思慕の念を抱き合う仲になったが、彼は出家僧である。沸き上がる煩悩を押さえるべく、僧は観世音菩薩の像を刻み続けた。その菩薩像は、長年の風雪にあらわれて今の観世音岩となったというが、戊午知床日誌ではただの大崖としか書かれていない。観音岩の岬側には何体もの観音像が祭られていて、この地で暮らしてきた人々にとっては信仰の象徴。
元々は“リウェンシリ ri-wen-sir”いつの間にか川の名前がオンネカモイヲ、ベツと呼ばれる用になったようです。リは高いウェンシリは悪しき山と云う意味で両岸が30mもあろうかと云う所に小川がある。悪しき理由は崖が崩れる事、もしくは陸路が先の岬(観音岩)で行き止まりとなる事?。クズレの名前は崖の崩壊で石が崩れる事から、昆布漁に出漁していた人達によって“くずれ”と呼ばれるようになったという事です。普通に歩いていける羅臼側知床最奥の川です。
永田地名解で言うところのカムイ・オ・ペツの事か?“熊・そこにいる・川”という意味で食べ物と姿を隠せる物と飲み水が有ればヒグマが居着いている事が多い。元々はオンネカムィオマベッという名前だったようです。山岳渓流がそのまま根室海峡に注いでいる感じです。上流には滝があり、釣りはその滝までになるが熊にはご注意を
アイトマリは和語、明治年代小廻船が北見にまわる時の船掛かりとしてアイドマリを利用した。アイは小廻船の船頭の風向語でヤマセ、マクダリ、アイの風のアイ。しけの時小廻船はアイドマリに避難した。アイドマリ川がカムイ・オ・ペツで泊地の名前がアイトマリという事の様ですがアイトマリは比較的遅くに付けられた様に思われます。戊午知床日誌ではカムイヲベツ、キムンカムイとも呼んだ。この『川筋に熊が多いので名付けているという』との記載があり。
セセク sesek は熱いという意味で、セセキは温泉の事だが日本語がルーツだと云う事だ。ただそのまま利用出来る温泉はヌー、飲める温泉はクスリと云うとも。瀬石では海中に温泉が噴出していて、干潮時に野天温泉として利用、熱いので海水で薄める為セセキなのかも。道路上から全てが見えるため、温泉を楽しむにはそれなりの覚悟も。
永田地名解ではチャラセナイ小滝とある“チャラセ⇒滑り落ちる”の意味。通称セセキの滝といわれ、道路の傍らに約20mぐらいの高さでおちています。水量の多い春先は路上か滝しぶきで濡れています。この滝は殆ど周年気軽に見ることが出来ます。近くの海に瀬石温泉が有る。
同じ地名が各地に残ってますが、意味は“われら 射る 崖(岩)”セセキの滝のそばにある切り立った崖の様です。古くアイヌは狩りや漁や戦いに出るとき、弓占いを行った。このような地名が残された所には、古くはこの近くに集落や祭場があったと思われますが、いつからこの地名があるのか詳しいことは分かっていないようです。
トッカリと言う地名は他にも有るがアザラシの事で、オホーツク海岸では今も年配者には通用する言葉。アイヌ語でアザラシを“トゥカラ”と云うが和人は訛ってトッカリと呼んだ。永田地名解では“トカラ・モイ"海豹彎”アザラシのいる湾の意味で当時は此所でアザラシを捕っていたという。オショロコツ川付近の彎の事で今は此処を昆布彎と云い地名が移動している。
瀬石の滝のすぐ南にある川の名前ですが、本来はもう一本南の川が本来のオショロコツ川で、今オショロコツといっている川は昔のトカラモイ川という事です。永田地名解では“オショロ・コツ磯ノ凹ミタル處”と、此所には義経伝説が残されているが、其の内容を知床日誌では“往古義経卿此所に鯨流寄りしを切て蓮の櫛に刺て焼き居られし時、其串折れて火に倒しや、公驚き尻餅突き給ひしという故事”と書れている。此は文化神サマイクルを義経に置き換えたものと考えられている。窪みは尻餅をついた跡と云うことになるが、普通オソルコッは海岸段丘の窪地みを云う事が多い。
永田地名解では“阪 ルサニ ノ短縮語両岸ノ ルサ ト往来スル阪ナリ”とある。道が-そこで-浜の方へ出る(下る)-坂。斜里にもルシャという川があり、区別するために羅臼側の川をルサ川と呼ぶことにした様です。ルシャとルサを横断するルートは標高が低く距離も短いので斜里側と往来には便利だったのでしよう。戊午知床日誌ではルシャだが呼び方の違いは二つのルシャを区別するためか・・羅臼のルサ川と斜里のルシャ川を結ぶ線は風の通り道にもなっている。
永田地名解では“キキロ・ベツ 虫多キ川・・蚊虻多シ”と虫-群生する-川 海岸から50mくらいのところに、10mくらいの滝があり、そこから川が曲がって奥が良く見えません。虫とは、ぬか蚊とかあぶなどをさすのでしょう。滝はワンポイントの釣り場です。
永田地名解で“チェプ・サク・ナイ 魚無シ川・小川”と有るがサクは“sap”の事で“出ていく・下る”を魚が居ないしたものか?。魚無川の理由は滝があり、鱒の遡上が難しい事による・魚無しと言っても鮭や鱒が入らない川で、岩魚はそれに含まれないようです。最近は海岸近くから砂防でほんとに魚無しの川に。戊午知床日誌ではクアマベツ“両岸けわしい山の間の川なり。この川筋にアマホウ(仕掛け弓)を多く仕掛けるので名ずく“という。漢字では精進川というのが多い。
ケネペッで“ハンノキ、川”と考えられている。ナラや白樺の巨木は生えているがハンノキは目立ちません。ハンノキは湿原に多い木、ケンネなら意味が違ってくるが?。戊午知床日誌では“チエッフシャクベツ大岩が連なっており、川筋に魚がいないので名付けていると”確かに大岩が多い川で、渓相は抜群だが魚が生息するには厳しいのか魚は少ない。
永田地名解で“チェプ・ウン・ナイ 魚居ル川”となっている。チェプ・サプ・ペッだと魚の入らない(いない)川となり精進川と呼ばれている事もある。戊午知床日誌では“チエフンベツ、魚が多い川”と書いてある。河口が港内に有るのでシーズンには港内で鮭が釣れる事もある。渓流魚は棲息している様だがヒグマ専用の道以外はありません。
モセカルベッでオオバイラクサを取る川だったのだろうと思うが、それほどの量が有るとは思えない小さな川です。ただ草苅リをするのを云う事も有るようです。戊午知床日誌ではイラクサが多いので名付けたと有る。羅臼側の川では渓相の素晴らしい川の一つで滝の数も多い。
オチカバケ川の川口に、浜より海に突出した岩を天狗岩と云い、岬の方からみると天狗に見えると言います。永田地名解では“オチカパケ南風ヲ防グ岩”と、松前の方言を例に解説しているがこの地では疑問。半島の反対側にも同名の地名が有りそちらは鷹の巣、チカパケはチカプエワケの短縮語とし鳥住む処としているが、羅臼側の方が鷲や鷹の姿を見ることは多い事からこちらの方が何となくスッキリする。戊午知床日誌では川口にある大岩“天狗岩”から名付けたと云う説と大鷲が多いので名付けたと云う二説を書き記す。“オチカッパケ o-cikap-pake”なら川尻の岩を鳥の頭と見たか、川尻の鳥いる崖という事なのか? 川尻の岩は天狗岩ということになりそうです。
永田地名解では“シャシ・ルイ昆布多キ處”とありこの辺は昆布が多い所だった“sasi-rui⇒昆布・甚だしい”となる。砥石が有ると言う説は戊午知床日誌にあり“川口の前に大岩が一本立ち其の風景が面白い。その川上に並の砥石より良い砥石ありそれで小刀を研ぐゆえになずいた”と。
トベニタィはイタヤ楓の林で、昔はイタヤ楓が多かったのだろう。知床日誌には“ホロトメニウシ本名ホロトベニウシという。トベニは楓のこと、この川すじに多いので名付けている”とある。“poro(pon)-tope-ni-us”近くにホントベニウシという地名があったというが、イタヤ楓の大きさの違いで“大きな(小さな)イタヤカエデ群生する所”となるか。
石の家、岩窟、岩屋等の意味ですが、チカップコイキウシ~ハシコイ間に洞穴はなく、何処をシュマチセと呼んでいたのか特定出来ていない。海上から見ると、飛仁帯洞穴が家のようにみえると言うことだ。知床日誌に“ここを(チカップコイキウシ)まわればサシルイの岬が見え、その間は一つの小彎になっている。廻った所に大石窟が三つある”と有りますこれも正確な場所は不明。飛仁帯洞穴からは、擦文やオホ-ツク文化の遺物が多数出土。
永田地名解では“アシュ・コイ 立浪 ハシコイト言フハ非ナリ”と有るが波が立っているか、波が走っているかの違いで通行の難所だった事は同じ。知床日誌には“ハシコエこのあたりの海岸から波が荒くなり岸を通る事は出来ない”と書き、戊午知床日誌では“・・枝がさまざまに曲がった樹が多くあるのでなずいているという”とも。地名解では“at-koy”で立つ波、知床日誌では“パシ pas”で走る波、戊午日誌では“ハシ has”は柴で其の内容からドスナラの事か?
隋道のそばの海岸にある羅臼では珍しい柱状節理の断崖で戊午知床日誌では“チカフコエキウシ大岩が積み重なって数十丈の岬となり、その前に一つの岩がつきだしている。このあたり多くが柱石である。その岬には陸行出来ないので色々な鳥が多く集まり、岩は鳥の糞で白くなっている。チカプは鳥、エコキは取ることを言い、鳥を捕るのに好いところである。”と記す“cikap-koyki-us-i 鳥をいじめつけている(捕る)所”の意味。幕末の頃は柱状節理の岩を材木岩と呼んだようです。
アイヌ語でリスマ⇒高い岩』の意味ですが地図には立岩と書かれていて今は立岩と呼ぶ人が多い様だ。知床日誌に“チカップコイキウシの前に五丈ほどの細い岩“と有り“このあたり多くが柱石である。その岬には陸行出来ないので色々な鳥が集まる”と。材木岩トンネル傍の海中にある高い岩です。
松浦武四郎の記録では“チカフコエキウシ”は再三出て来るが“カイズ岩”は出てこない地名です。地形図では立岩と羅臼よりの岬との間に有る海中の岩に付いた名前の様で、地里アイヌ語地名辞典で調べても判らず、アイヌ語とは無縁とは思えないが今のところは不明。
ひかりごけ生息地となっているマッカウス洞穴付近の地名・永田地名解では“蕗臺多キ處”と“蕗が多いところ”と、松浦武四郎の戊午知床日誌でもマカウシとなっている。ただ蕗に関して言うなら他にもっと良い場所があるし、ここは蕗の生育に適した場所にはとてもみえませんので何でこんな名前がついたのか謎です。マッカウス洞穴は昔から人に利用されたらしく、続縄文、縄文、オホ-ツク土器の破片が採集されています。羅臼の観光名所でここには松浦武四郎の歌碑もあります。
永田地名解では“案内處 岩ノ間ヲクルクル如ニテ案内ナケレバ行クコトカタシ”とありかなりの難所だったのでしょう。“ci-tura-i 我々が同伴する所”の意味、確かに此処は羅臼方面から来ると陸路では最初の行き止まりで説得力はあるが別な説もある。戊午知床日誌では“わずかばかりの川という意味である”とししてチトライ川に触れている“川口より三、四丁ほどのぼると、左右とも小川多く、何れも大岩が簇々して滝をなして落ちていて・・”とあり、川がすぐ無くなってしまう事を名前の意味としてあげている。海岸より少し上流の左岸に細長い小さな滝あり。
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