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北見道路開削では特に北見と遠軽間で強制労働による犠牲が多かったが、殉難者の供養として、宇野シゲが大正4年3月21日、旭野に建立したと言う大師堂。大師堂は仏堂の呼称で、大師号を贈られた僧を礼拝の対象として祀るが、真言宗の開祖である空海(弘法大師)を祀っている仏堂が多く、この大師堂もそうだったと思われます。何とか発見して訪問した時には建物の傷みが激しく、掛け軸や仏像などは別に保管してるのか見当たりませんでした。ただ寄進者の名前に宇野さんの文字と大正と有ったので、宇野シゲさんの建立した大師堂ということは間違いないようですが、建物自体は世代交代しているようです。大師堂は国道333号線沿いで生田原町安国から旭野トンネル方面に進み生田原川を越えてまもなく左側の林の中に大師堂が見えますが作業小屋のように見え、今迄の探索で見逃してました。現在「弘法大師堂」と呼ばれているようですが、地形図には神社マークがついてます。◇遠軽町生田原旭野
大正2年7月、六号駅逓は下生田原(現安国)に移し4年4月に下生田原駅逓と改称し、旅人の便を図った。しかし大正12年9月、下生田原駅逓も駅逓の役目を解かれ廃止。平成3年には野上駅逓が設置されてから100年目を迎えるにあたり、時の流れの大きな節目としてこの貴重な歴史を後世に伝承するために、野上駅逓100年記念碑建設期成会を組織し、関係機関や多くの町民各位の協力により記念碑を建立。 ◇設置場所:遠軽町野上
『山神』碑の建立は遠軽町史では明治38年としているが、実際は明治41~42年頃らしい。薬師山から石材を下げ、それを運んで建てたが、集落総出で5日程かかりお祭り騒ぎだったという。ここには「山神」の他に「山の神建立の由来碑」「薬師山八十八カ所の由来碑」と薬師山八十八カ所札所がある。目印は薬師山入口バス停。◇設置場所:遠軽町瀬戸瀬東町
昭和33年5月、瀬戸瀬青年団が中央道路開削当時、埋葬されていた遺体46体を発掘し瀬戸瀬墓地へ埋葬したが、すべての遺骨を発掘出来ず、昭和51年、囚人墓地があった場所(発掘跡)に「殉難者の慰霊の碑を建てよう」と瀬戸瀬婦人会が発起。趣旨に賛同した町はじめ300余戸から143万円の寄付を得て慰霊碑を建立した。碑文によればここには未だ21体の遺骨が眠っている霊場であり、ここには薬師山八十八カ所の第八十八番がある。◇設置場所:遠軽町瀬戸瀬東町
滝ノ下駅逓開設百年記念碑碑文
『明治24年北見地方の警衛と開発のため旭川~網走間の中央道路が開削され、合わせて沿線に1号~12号官設駅逓が建設された。入植者や旅行者の便のため旅館と運送店を兼ねた施設である。ここは七号駅逓と呼ばれ、無人休泊所として利用に供されていたが、明治26年6月30日滝ノ下駅逓として開業した。しかし通行宿泊者は月数人ていどという状態のため、隣駅まで五里という未開の地に在って、自給自足を余儀なくされ苦難に耐え忍んだのである。北見地方の開拓に駅逓の果たした役割は大きく、その貢献を讃えるため、ここに記念碑を建立するものである』以下省略。
◇開駅:明治26年06月 廃駅:昭和02年04月
◇設置場所:遠軽町丸瀬布南丸108番地
丸瀬布上武利に有る神居滝簡易郵便局の北側にかつてムリイ駅逓所だった施設の一部(二階部分)が住宅として活用されている。上藻別駅逓はこのデザインを一部採用しているというが、トタンが張られ外側からでは元型が正確にはわからないが、美深の駅逓に似ている印象。現在は無住の館のようですが管理はされている。建物から離れての見学は可能です。
◇設置:大正14年05月 廃駅:昭和17年09月 ◇現住所:遠軽町丸瀬布上武利
八号滝ノ上駅逓の取扱人は中沢兼三郎となっているが、実務は兼三郎の養子中沢沢治が勤めた。沢治は七号駅逓の佐藤多七と一緒に札幌を出発してそれぞれの駅舎に移り住んだ。八号駅逓の取扱人が白滝最初の定住者だったようです。中央道路と湧別川合流地点で八号沢川付近にありました。昭和7年に石北本線が開通し、それを受けて昭和8年に廃止となる。 ◇設置場所:遠軽町奥白滝
北見峠のパーキング傍にある。文字が流れて読めなくなっていたが、近年更新されて読みやすくなっている。内容については碑文で代える。
碑文 中央道路開削経過
中央道路は網走に起り北見、留辺蕊、佐呂間、野上を経てこの「北見峠」を越え上川、愛別、旭川に至る当時全長五十七里十四町十一間(二二五粁四〇二米)の殖民道路であり拓殖と北辺防衛上極めて重要視されて開削されましたしかもこの道路の北見側はその大半が釧路集治監より網走仮分監に移された千百余名の囚人を使役として開削されたものであり明治二十四年春着工以来わずか七ヶ月余りを?た同年十一月にはこの北見峠まで網走から三十九里(一五六粁)の道路が完成を見るに至りその作業能率は今にして見れば驚異的なものでありました。したがって作業内容は想像を絶する酷使につぐ酷使、不眠不休の労役が続けられ、特に最も惨を極めた野上(遠軽町)北見峠間は過度の労役と病にたおれた死者百八十余名にも及び死亡者は路傍に仮埋葬されたまゝ弔う人もなくそまつな名もない墓標は風雪にさらされたまゝ月日のたつに従消え去り、今になっては埋葬された場所もほとんどが不明になりました。その後、昭和三十二年春、白滝村字下白滝で六体を発見収容、昭和三十三年遠軽町字瀬戸瀬で四十六体を発見収容、更に昭和四十八年十月白滝村字白滝東区で六体を発見収容、それぞれ供養の上改葬しましたが、未まだ当時埋葬のまゝ地に眠れる霊の多いことと想い、こゝに殉難者慰霊の碑を建立しこの道路建設のいしずえとなった囚徒の霊の安らかな眠りを念ずるものであります。
【裏面】
昭和四十八年八月建立 白滝村長 國松 一敏
◇所在地:遠軽町白滝 北見峠パーキングエリア
六號野上驛逓所の沿革、山の神建立の由来碑文、殉難慰霊之碑建立の趣旨(碑文)は駅逓碑を巡る旅の遠軽~旭川の駅逓跡に掲載してあります。遠軽駅逓所跡(大通南児童公園)、下生田原駅逓所跡(安国郵便局 東側)、社名淵駅逓所跡の碑はありません。
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