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斜里岳登山道清里コースの登山道口にある再建された山小屋です。食事なしの素泊まりのみですが登山基地として貴重な存在で夏山シーズン中は管理人が常駐しており気象状況や登山道の安全情報などを入手することが可能となっています。清岳荘には飲料水はなく各自で用意してください。営業期間は6月中旬~10月初旬駐車場は60台前後程のスペースがあるが先着人。◇きよさと観光協会 TEL:0152-25-4111
斜里岳道立自然公園内の斜里岳原生林ウォーキングコースはネイチャートレイルとしての条件を満たしたコース。清里町の絶景スポットの一つ斜里岳の登山口になっている山小屋「清岳荘」をスタートしてゆっくり歩いても1時間以内で巡る事ができる。樹齢数百年のミズナラやトドマツ・エゾマツの巨木がある混合林で原生の自然と森の成り立ちがわかる素晴らしいトレイルです。知床の原生林に勝るとも劣らない斜里岳山麓の原生林を身近に体験してください。◇ガイド東オホーツクガイド協会 TEL:0152-25-4111まで
洞窟は斜里岳を形成している火砕岩の層が浸食を受けて作られたという事であまり見ない。風化しやすい所に出来るため最後には崩壊してしまうのか?海蝕などで出来たのは知床では普通に見られるが。斜里岳にはそういう洞窟が結構あるようで、登山道の新道と旧道の分岐となる下二股にある洞窟を仙人洞と呼んでいる。気が付かなかったが下二股には1936年の皆既日食で使用した観測所の跡が有るそうだ。その時は山頂にも観測所が作られその時に尾根コースを下二股に降りる様に切り替えたという。皆既日食はダメだった様ですが登山道は残った。
斜里岳登山道の上二股から新道コースを少し降りた所で右側に見えてくるのが「龍神の池」時間に余裕が有れば新道コースから別れ龍神の池を経て再び新道コースに戻り下山するのも良い。湧水で透明なのですが鉄イオンを大量に含み鉄分が沈殿してできた褐鉄鉱床で「鉄釜」と呼ばれる畦のような仕切りが形成されて3つほどに分割されています。俗に言う金気の強い水で飲料には適さないが不思議な景観は神秘的。ここから流れ出した湧水は龍神の滝となってやがて斜里川へ・・龍神の池の先にある小さな湧水が名水と言って良いほどの水で飲用に適している。
斜里岳の山頂から中腹にかけての一体を区域とする斜里岳道立自然公園は道立自然公園の中では最も新しく、全域が国有林からなり総面積は2.979haの広さで斜里町、清里町と標津町の町界にあり網走管内と根室管内を隔てる分水嶺。冬期間は北西の季節風を受け止めるため積雪量が多く斜里岳山麓の豊富な湧水の源となっている。斜里岳は千島火山帯に属し900~200万年前に形成された古い火山の上に25万年前程前の活動によって現在の斜里岳ができた。山頂部は溶岩ドームで標高は1.547m。ほぼ独立峰に近く視界を遮る物は無いため360度の眺望。斜里岳は古くはオンネヌプリと呼ばれ日本百名山にも選ばれている。
日本百名山の中では滝の続く沢歩きで登山できるという数少ない山。登山口は清岳荘の裏から始まり、沢を左右に時々渡りながらいくと、やがて右手に仙人道の洞窟、更に進むと屏風岩を望む旧小屋跡、続いての下二股の分岐に着く。下二股から旧道コース(沢コース)と尾根筋にでる新道コースに分かれるが新道は下りの時に使いましょう。沢をを進むとすぐに水蓮の滝から始まるなめ滝が連続して出てくる。コースの危険箇所には鎖やロープが設置されているが2人一緒につかまると危険なので1人が登り終えてから行く事。視界が開ける場所は見晴の滝と万丈の滝付近の見上げ石から斜里平野が見える程度。最後に出てくる霊華の滝を越えると8合目で上二股の新道と合流する。上二股からは灌木がトンネル状のきつい斜面が続き、胸突八丁という急傾斜を登り詰めると馬の背に出る。馬の背に出ると眺望が開けますが、斜里岳神社のあるコブまではガレ場が続き砂礫地のコースを最後に一登りするのだがあちこちに踏み跡があるのでルートを間違えないように。下山時は馬の背付近までは浮き石があるガレ場なので注意を、上二股から新道コースの尾根筋を上り下りしながら進んで途中のコブから展望が開けピークの熊見峠からは斜里岳の頂上や斜里平野を見渡す事ができます。熊見峠を過ぎると徐々に下りはじめガマ岩からは展望もなく黙々と下るだけ、最後の九十九折りの急傾斜を下り終えると旧道コースの下二股に合流する。
明治42年斜里に川湯間の道路開通にて旧斜里原野7線19号に設置された。石碑は国道工事にて一時撤去されていたが工事終了で再設置された。今の清里町で言うと、神居道路で上斜里と神威の境界付近の上斜里側になるが道路際というよりは畑の端という感じで一段低い位置にある。通称神威国道の工事で防雪柵が出来た為に注意してないと見落とすかもしれません。
◇設置:明治42年03月 ◇廃駅:昭和05年06月
◇初代取扱人:吉野吉太郎 ◇二代取扱人:山田与作 ◇三代:田崎藤三
◇現住所:清里町・旧斜里原野7線19号
◇GPS:N43°48’50.7” E144°33’44.6”
碑文から「明治30(1897)年、塚本伊勢太氏の手により、この地に初めて開拓の鍬がおろされた。清里町開基80年を記念しこの碑を建立する。昭和51年11月15日 清里町神威地区住民一同」 塚本伊勢太氏は岩手県出身で明治24年に野川道路に開設された「野川駅逓」の2代目管理人に就任(明治25年~)、明治30年に神威10線21号に転住入地したのが、清里町最初の和人定住とされています。「野川駅逓」跡には小清水町が設置した「野川駅逓跡の碑」がある。でも発祥の地碑が出来る前から人はいた、和人入植記念碑ならばわかるが。
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