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話が長いので要約して記載する。『標津町の留辺斯(ルベス)駅逓所より二里ほど下った所に忠類川とソーケショマナイとの合流部(現・金山公園付近)に堅固な砦があり、そこの首長ヨコウシは近隣に知られた財産家であった。ヨコウシの祖先の頃、ある年の夏に忠類川の水が枯れて大滝の底が現れたことがあり、その時滝壺の中に沈んでいた数百貫の金塊を得て北海道の王者にのし上がった。このことを知った各地のアイヌは隙あらば奪わんと狙っていたが堅固な砦に立てこもる金山には誰も手が出せなかった。北見の首長サツリーは悪人で執拗に全財産を奪わんと狙っていた。金山の首長に界隈きっての美人と評判の一人娘ソキリニがいて、北見の首長サツリーは息子の嫁にと再三申し入れていたが、首長ヨコウシはこれを聞き流していた。ヨコウシの娘ソキリニは茶志骨首長次男のワッカオイと恋仲で嫁ぐことになった。これを知ったサツリーはソキリニが嫁入のため護衛隊と出立して砦が手薄になった所を狙って攻め込んだ。砦は老人と女だけで首長は戦うのをあきらめ、はまず老人・女を逃がしてから、誰にも告げることなく財宝を金山の滝の所に深く埋めてしまった。その後で砦に火を付け、炎の中に消えていった。金塊を埋めた場所の鍵として「朝日さす・夕日さす」という言葉が残されている。』※標津町史よりこの話は西村武重氏が大正年代に留辺斯(ルベシ)駅逓所でラウシという古老から聞いたという話が元になっている。金塊の話などを含めて全体に脚色があるような印象はぬぐえないが、北見アイヌとの闘争などがあったという骨子は間違いなさそう。チャシ跡の数は多いが、それと比較してシャシ関連のアイヌ伝説の少ない。
エリモンクル伝説というタイトルで標津町のサイトにホニコイチャシの伝説が掲載されている。其の要約をここに掲載する。『シベツ川の右岸の丘の上にホニコイチャシあり現在の望ヶ丘公園近くと思われます。ホニコイチャシの南方にあるチフルチャシのアイヌとは仲が悪く争いが多かったが、なかなか決着が着かずにいた。チフルチャシの大将はトシャムコロと云うチフル川からシュンベツ川(別海町春別)までの総大将。ホニコイシャシの軍師は修業に来たエリモンクルという知恵者であった。あるときエリモンクルは、敵の前で裸の女を走らせ、敵の油断を誘い背後から攻めるという奇計を考え、恋人コエカイマツを説得して計画を実行。チフルは混乱のうち敗北し、ホニコイに従う事になったという』※加賀伝蔵が書いた「蝦夷風俗図絵」(市立函館図書館蔵)という本の中の一話だが伝承としては残されていない話。寛政年間から四代にわたって伝蔵を名のり、アイヌ語の通詞をしてきた家で中、四代目の伝蔵の書き残したものが最も多い。別海町に加賀伝蔵文書館がある。詳しくは標津町の公式サイトでご確認を。なお周辺にはチャシ跡が六基以上あり、伝説のチャシと現在のホニコイチャシが同じという確証はありません。
現標津川河口から約2kmほどの所にホニコイチャシがある。かつて国後・目梨・厚岸などの地で、飛騨屋久兵衛という商人が場所請負人としてアイヌとの交易を一手に引受けていたが、交易とは名ばかりで搾取と強制労働や虐待等が続いた為1789(寛政元)年ついにクナシリとメナシでアイヌが蜂起し和人71名を殺害。松前藩は事態の収拾を図るため鎮圧隊を派遣。和人殺害の加害者アイヌ37人を幕府に極秘で処刑した。この時にアイヌ側が松前藩を迎え撃つために作ったと云われるチャシがホニコイチャシという。※アイヌ民族の悲惨な歴史を垣間見る。
同じく戊午日誌より「イミとはまむしの事を云、往昔此処に大なる蝮蛇が住み居たるを、判官様退治なし玉いしと云」とあり。崎無異寄り薫別よりの川名。
地名由来がいまいちはっきりしない崎無異であるが、松浦武四郎の「戊午日誌=欄外」に「昔神が一人、山よりサキムイサキムイと云って下られしと云うなり」とある。
標津川の上流部で中標津町モアンより奥にあるも現在名は?戊午日誌より「両岸峨々たる高山、其訳は判官様が熊を捕らえられしが山に成りしと云えり」とある。
戊午日誌より「往昔此処戦のありし時、樹の枝を似て垣を結しと云う儀也」とある。伊茶仁附近のチャシ名だが実在は確認していない。
戊午日誌より「昔はここにも人家ありて、判官様が、来り玉ひし時其子供犬を奉りしによって号るとかや」とあり。伊茶仁附近の地名の様です。
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