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日帰り温泉として解放されているのは標津町市街地に2軒、川北に一軒有る。オホーツク温泉ホテル楠、浴場は別棟となっており昔から標津町の公衆浴場的な温泉で源泉掛け流し。キャンプ場からも徒歩圏内。他に標津温泉ホテル川畑があります。市街地の温泉はそれぞれに微妙な違いは有るが基本的には同じ泉質の様です。川北鐵の湯温泉(川北167番地4)鉄工場が経営する手作りの温泉で源泉かけ流し、高張性弱アルカリ性高温泉と泉質が市街地の温泉とは異なる日帰り専用温泉。廃業した旧天祐川北の温泉試掘のポーリングより湧水が自噴しており利用されている。
秘境薫別温泉も今ではかなり有名になってしまいましたが、安政5年に当地を訪れた松浦武史郎の日誌にも登場する古くからその存在を知られていた温泉。温泉は薫別川の途中、川面から2m程上にあり誰かが設置したザイルを利用して下りられます。谷川沿いの、岩をくりぬいたシンプルな湯舟の他に、川を挟んだ対岸にもお湯が湧いている。川に簡単な堤防を作って川の中の温泉を楽しむのも良い。湯船の広さは1.2m程でお湯はかなり熱め、そのため温泉を水で薄めないと入れません。水抜き孔などはなく、底が汚れていても掃除等も出来ないのでバケツ必携。バケツを用意していないため温泉に入れずに戻られる方もいる様です。川原の方は水量の多い時は危険です。温泉へのルートは根北峠に向かう途中に羅臼方面の看板があり、そこを左折し道道古多糠-川北線を進む事約10km程度で、青い案内標識がある交差点から滝の沢林道→滝の沢支線へと向かいます。林道は全域砂利道で一部危険な箇所も有るので運転は慎重に。途中の分岐は右側を選択してください。温泉は二つめの橋を渡ってすぐ左折する小さな脇道がありそこを左折すると車二台ほどの駐車スペースが有る。林道は急な登りになっていて大型土嚢があり先は通行止め、此所を越えると左側に降りていく踏み分け道にザイルを設置。林道の開通状況は事前の確認を。単独行は危険でお勧めはできません。
旧標津温泉で温泉宿が台風で流出、その施設湯船が野天温泉のルーツ、ニジマスの養魚場も同時に流失し忠類川のニジマスのルーツになった様だ。脱衣所も湯船も男女別で洗い場はコンクリートで作られ、露天風呂としては無難でお勧めです。浴槽部分は旧旅館の浴槽がそのまま露天風呂に利用、以前は浴槽の仕切りや外囲いに不安な感じもあったが、改修工事で改善されている。浴槽など同時に改修された様です。向かって左側が男湯で風呂と別に休憩小屋あり、手入れも比較的よく整備されています。お湯は50度位の白濁した食塩硫黄泉で塩味がし硫化水素臭が少しある。川北温泉には中標津側から道道を経て川北林道経由するルートと、標津町から国道244号線を斜里方向に向かい、金山橋際から左折する2ルート有るが、判りやすいのは後者の方で国道沿いに大きな看板が立っています。国道から温泉まで約5km、林道は砂利道ですが走りやすい方う。入口になる金山橋より少し峠側には標津観光十景の金山の滝が有ります。※林道は除雪をしていないため、積雪の状態にもよるが冬期間の通行は出来ない。◇標津町字川北1-3
オートサイト用7棟とバンガロー4棟の他、共同炊事場2棟とややこぢんまりとしたサイトですが、給電付き流し台等もあり使い勝手はよさそうです。シーズン中のバンガローとオートサイトの利用は早めに予約していく方が無難かも。買い出しも温泉も全て徒歩圏内。◇現地管理棟 TEL:0153-82-2265迄
このキャンプ場が出来て今までの(遺跡とポー川歴史公園)は事実上廃止となった。ワイルドさには欠けるがそれ以外では特に不満は無いと思う。ただ波の音が風向きでは気になるかも、市街地に隣接しているので何かと便利、特に釣りとキャンプを同時に楽しみたい方にお勧め。釣り具を含めレンタルも充実、予約の必要はない。釣り突堤は夜間照明なし、積雪期は利用出来ません。◇標津町南3条東1丁目
かつての根室標津駅構内の南端に残る標津線の遺構でレールと転車台が有ります。転車台は標津町指定文化財として綺麗に保存、標津町が設置した説明板が立っている。すぐ近くの標津文化ホール前にはかつて標津線を走っていたC11が静態保存されています。川北駅跡は広場として整備されキハ22を保存、向かいの待合所は川北駅舎をモチーフにしているとの事で此処にも案内板が有る。川北から古多糠間の殖民軌道忠類線は痕跡すら残っていない。
明治18年に新斜里山道が開かれて開設された官設駅逓、瑠辺斯はルベシベと同じ意味だが、留辺蘂に駅逓があり区別するため瑠辺斯としたらしい。金山の滝から約7km程上った所に有った留辺斯に標津町郷土研究会が設置した留辺斯駅逓跡説明版が更新されず判読不能になりかけていたが、平成11年に再建されている。ここでは旧説明板より読めた部分だけを掲載しています。
◇留辺斯駅逓跡 説明板より
駅逓……明治~昭和初期にかけて人夫・馬による荷物運搬と宿泊所を兼ねた施設として旅人開拓者の移動を助けた。
明治18年(1885年)に新しい斜里山道が開かれ、この駅逓所が置かれることになった。初代駅逓取扱人は高橋茂三郎で、その後、遠藤喜太、長谷川長七、長谷川米治、沢向和吉、服部次八そして麻生円蔵に引きつがれて昭和16年に廃止された。
明治29年(1896年)にこの地を通った河野常吉(歴史家)は高橋茂三郎の話として駅逓開設当時は月に5人~10人の通行者が、近頃では日に2人~3人は宿泊すると、また「本年ハ屯田設置ニヨリ根室ヨリ行クモノ多シ」と北見地方の開拓のことを記している。
明治18年当時で標津-留辺斯駅逓間7里16町が馬68銭人足56銭で留辺斯-斜里間8里が馬70銭人足58銭であった。標津町郷土研究会
◇北海道宿駅(駅逓)の研究では以下の通りですが、実質的には説明版の方が正しいと思われる。旧説明板と散見された説明板の内容は基本的には同じですが、設置者が郷土研究会から標津町教育委員会になっています。
◇開駅:明治18年09月 ◇廃駅:昭和21年01月
◇初代取扱人:遠藤喜平太 ◇二代:長谷川長七 ◇三代:長谷川長作
◇四代取扱人:長谷川米次 ◇五代:笹谷捨次郎 ◇六代取扱人:沢田和吉
◇七代:服部次八 ◇八代:服部孝道 ◇九代取扱人:麻生円蔵
◇現住所:標津町留辺斯 ◇GPS:N43°45’02.72” E144°51’42.76”
標津から斜里への峠越えに標津側にはそれまで瑠辺斯に官設の駅逓があっただけで、峠を越えるのは大変だった。明治29年開駅の糸櫛別逓所は瑠辺斯と標津の中継地として標津から約16kmの位置に開駅。取扱人は谷村龍之進氏で親子三代に引き継がれ昭和19年頃に廃駅、以後は旅館として昭和38年頃迄営業。以前は糸櫛別駅逓所跡の国道沿いに看板が出ていたが、看板が消えて平成11年に説明板が再建されたが目立たない。◇開駅:明治29年12月 ◇廃駅:昭和19年02月
◇初代取扱人:谷村龍之進 ◇二代:谷村正蔵 ◇三代:谷村滝之丞
◇所在地:標津町糸櫛別 ◇GPS:N43°43’38.71” E144°58’06.00”
糸櫛別駅逓の経緯は先に書いてあるので省略。糸櫛別駅逓の石碑は明治29年に駅逓所の井戸を掘ったとき出た石に刻んだものという、平成10年に谷村龍之進の祖孫より標津町に寄贈されポー川史跡自然公園で野外展示されている。※明治34(1901)年開設の標津駅逓所や昭和5年開設の古多糠駅逓所など標津には5駅逓が設置されていいるが碑があるのは糸櫛別駅逓のみ、駅逓の遺稿は残されていない。他町の駅逓は「駅逓跡を巡る旅」を参照してくださると幸いです。
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