更新情報など
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※確認できたヒグマ襲撃事故の内容
・明治08年:北海道豊浦町⇒1名死亡:2名負傷
・明治11年:北海道丘珠村⇒札幌丘珠事件⇒猟師・村民幼児含む3名死亡:2名重傷
・明治37年:北海道下富良野町⇒下富良野事件:少女死亡
・大正04年:北海道留萌苫前村三毛別⇒三毛別羆事件⇒7名死亡:3名重傷
・大正04年:北海道剣淵町⇒男性1名死亡
・大正12年:北海道石狩沼田⇒石狩沼田幌新事件⇒猟師・4名死亡:4名重傷
・大正14年:北海道厚岸町⇒林務官1名死亡:1名負傷
・昭和24年:北海道大雪山旭岳⇒大雪山事件⇒登山中男性1名死亡
・昭和37年:北海道標津町⇒猟師男性死亡
・昭和37年:北海道標津町⇒猟師男性死亡
・昭和39年:北海道平取町振内町⇒小5少女死亡
・昭和40年:北海道猿仏村⇒造材男性死亡
・昭和45年:北海道日高山脈カムイエクウチカウシ山⇒福岡大ワンゲル同好会事件3名死亡
・昭和46年:北海道滝上町⇒狩猟男性死亡
・昭和48年:北海道厚沢部町⇒林業男性死亡
・昭和51年:北海道千歳市⇒風不死岳事件⇒山菜採り男性2名死亡:3名重傷
・昭和52年:北海道大成町⇒山菜採り男性死亡
・昭和52年:北海道大成町⇒渓流釣り男性死亡
・平成02年:北海道森町⇒キノコ狩り男性死亡
・平成11年:北海道木古内町⇒渓流釣り男性死亡
・平成12年:北海道平取町⇒狩猟中男性死亡
・平成13年:北海道白糠町⇒山菜採り女性死亡
・平成13年:北海道札幌市⇒山菜採り男性死亡
・平成13年:北海道門別町⇒駆除男性死亡
・平成17年:北海道白糠町⇒無職男性死亡
・平成18年:北海道新ひだか町⇒山菜採り男性死亡
・平成18年:北海道浜中町⇒駆除ハンター男性
・平成20年:北海道北斗市⇒山菜採り男性死亡
・平成20年:北海道松前町⇒駆除ハンター男性死亡
・平成20年:北海道標津町⇒釣り男性死亡
・平成22年:北海道むかわ町⇒山菜採り男性死亡
・平成22年:北海道帯広市⇒山菜採り女性死亡
・平成23年:北海道上ノ国町⇒山菜採り男性死亡
※死亡の項目で色つきは食害を示す
※ここに書いてあるのは人身被害の代表例で実数ではない
日本の熊害史上3番目の悲惨な事件で、明治の開拓者によって語り継がれたという。ことのきっかけは、明治11年1月11日、猟師が札幌丸山の林内でオスの穴グマを撃ち損ね、襲われて死亡したことに始まる。その後、穴を追われたこのクマは、飢えて札幌の町を走り回ったため、札幌警察署は駆除にあたった。17日に駆除隊が編成され、その指揮は警察吏の森長保が執った。この日クマを平岸で発見、後を追ったが、月寒、白石と逃げられ、雁来までは確認したが、猛吹雪のため見失う。その日の深夜から翌日未明にかけてそのクマは丘珠の炭焼小屋に侵入。この小屋には堺氏倉吉一家と雇女が寝ていたが、クマは主人と幼児を喰い殺し、残った妻と雇女も重傷を負った。日が明けて18日昼に駆除隊は付近の山中でクマを発見し射殺。そのクマは解剖され胃の中から2人の遺体の一部が発見された。この遺体の一部とクマの剥製は北海道大学付属植物園に保存されているということです。
事件は日本の獣害史上最大の事件で、3日間で一頭のクマが開拓農家12軒を襲い、6人を殺害、3人に重傷を負わせた熊害としては世界にも類をみない事件。場所は北海道北部の海岸から30Kmほど内陸に入った苫前郡苫前村の三毛別の六線沢という集落で、現在は苫前町三渓という。事件が起こったのは大正4年12月9日午前10時頃、太田三郎宅に一頭のクマが侵入し、在宅していた妻とその子供の2人を殺害。妻の遺体はクマによって山の中まで引きずられ、翌10日集落の男達により変わり果てた姿で発見された。10日夜太田宅で2人の通夜が行われていたが、午後8時半頃、その席に再びクマが遺体を奪い返しに侵入。多くの人々が家の中にいた為大惨事になると思われたが、1人が銃を発砲した為クマは退散し山の中へ逃げていった。その頃太田家のさらに下流にあった明景安太郎宅には、夫を除く明景一家と部落の上流に住む斎藤家の妻と子供が避難していた。明景宅は開拓団では比較的家も広く地理的にも安全とされていが、異様な騒ぎが上流の方から聞こえてきた。太田家にクマが侵入し人々が騒ぐ音である。両家の間は500mほどの距離で、明景宅にいる人々は恐れおののいた。クマの侵入があった太田家に居た人々は一旦川下の家に避難する事にし歩き始めた時、川下の明景家から激しい物音と絶叫が聞こえてきた。明景家にクマが侵入したのである。明景家には女や子供たちが避難しており、極めて危険な状態でこのクマによって4人が殺され、3人が重傷を負った。午後8時50分頃の事である。その時すでに明景家の回りを開拓団の男たちが取り囲んでいたが、出てきたクマに撃った発砲は不発に終わり、仕留める事ができなかった。相次ぐクマの襲撃に恐れた開拓団の人々は一刻も早く開拓地から逃れる事にし、まずは3Kmほど下流の辻橋蔵家とさらに3Km下流の三毛別分教場とに分離避難させる事となった。一方クマ狩りの本部が下流の一軒の家に置かれ、討伐隊員が集まった。ところが11日も12日もクマの姿さえ発見できず。13日夕刻にはクマは誰もいない開拓部落の9軒もの家に侵入し、破壊の限りを尽くした。同日午後8時頃、クマは更に下流に現れ発砲するも逃げられる。14日午前、足跡と血痕を発見し追跡してクマを発見した山本兵吉が仕留めている。3日間の討伐隊は官民あわせ延べ600人、アイヌ犬10数頭にも及んだ。その後開拓民はその地を離れている、戦後住む者もいたが現在は無人の地。集落の上流に開拓者の苦難をしのばせる復元された住居や事件の説明板などがある。この事件はテレビドラマ「熊嵐」となったので知る人は多いと思う。苫前町郷土博物館では北海道最大級のヒグマ剥製とともに、この事件をジオラマ展示している。
事件は日本の熊害史上2番目の悲惨な事件で大正12年8月21日から22日にかけて起こった。8月21日は沼田の恵比島で太子講祭りがあり、近くの村々から多くの見物者が集まっていた。祭りが終わり帰途についた幌新の若者8人が、恵比島から4Kmほど離れた幌新小学校付近の山道に差し掛かったところ、道路脇のササ藪から突然クマが現れ、最後に1人で歩いていた少年に踊りかかった。しかし着物と帯にツメを引っかけた為に、少年はこれを裂捨て難を逃れた。この少年を見失ったクマは、先を歩いていた別の兄弟2人に追いつき、弟を一撃で撲殺、兄も重傷を負わされ、土中に埋めた。残る数人はそこから300mほど離れた持地乙松宅に逃げ込み、炉の火を強くしたり、屋根裏や押し入れの布団などに潜り込んだ。クマはこの家の回りをうろついていたが、やがて玄関の引き戸を壊して家の中に侵入した。死傷した兄弟の両親はスコップで立ち向かったが、父は一撃のもとに叩きのめされ重傷を負った。クマはなおも家の中で暴れ回ったが人影がないためか、いったん引き返そうとした。ところが息子2人が襲われて気が動転した母親がふらふらと玄関から出ていったため、クマはその母親をくわえて消え去った。やがて助けを求める叫び声と念仏の声が聞こえてきたという。その後、家の付近を探すと、生き埋めにされ瀕死の重傷を負った兄を発見し、収容した。この惨事はすぐに村に伝わったが、これだけではなかった。同じ恵比島に住む猟師の永江政蔵が単身で山に入り、クマを仕留めようとしたが、そのまま行方不明になり、24日にへし折られた村田銃とわずかな左足という変わり果てた姿で発見される。同じ日討伐隊の最後尾にいた別の猟師が、中腹に潜んでいたクマに襲われ死亡、他の1人も重傷を負った。この事件では結局4人の死者と4人の重傷者を出した。このクマは24日に射殺され、胃袋からは人の骨や指などが大量に出てきたという。沼田町恵比島はNHKの連続ドラマ「すずらん」の舞台となつた所です。
事件は明治以来、大雪山の登山史の中で唯一のヒグマによる死亡事件で1949年7月30日に起こった。愛山渓温泉に昼頃、秩父別の若者9人が到着し午後1時頃から沼の平・裾合平を経て、旭岳頂上までの往復登山に出かけた。全員無防備な上日帰りの予定だったという。9人いた若者のうち4人は姿見の池付近で疲労のため、引き返すことにし、残りの5人は旭岳頂上を目指した。ヒグマが姿を現したのは4人の引き返した組の方で、午後7時頃、当麻乗越の約1km下の第2展望台に着き、そこから沼の平に続く登山路に差し掛かったところ、突然1頭のヒグマが姿を現した。4人はクマを追い払おうと大声を出したが、クマはうなり声を発しさらに接近してきた。4人が一斉に脇のササやぶに逃げ込もうとしたとき、クマは4人のうちの1人に襲いかかった。しばらく襲われた若者の苦悶する声が聞こえてきたが、残りの3人はどうしようもなく、近くの岩の間に隠れていた。午後9時頃、旭岳頂上から帰って来た5人が来たので、その経緯を話し、その日はこの岩場で8人は夜明けを待った。同日、愛山渓温泉では夜になっても若者たちが帰って来ないので、2人が三十三曲がりの坂の上まで様子を見に行ったが、暗く手掛かりを掴めないまま引き返した。翌31日早朝、国策パルプの山岳部員16名が愛山渓から沼の平、旭岳、中岳経由で層雲峡に向かった。このグループは途中で遭難した8人に出会い、事件を知り共に愛山渓に引き返した。その翌日の8月1日、20余名の捜索隊が現場付近を捜索し、喰い尽くされた遺体を発見。加害グマも発見したが逃げられ、クマは翌年捕獲されている。
日高山脈縦走中の福岡大ワンダーフォーゲル部のパーティーが1頭のヒグマに襲われ、3人の死者を出した事件で、北海道山岳史上最も悲惨な事件の一つで、日高山脈では唯一のヒグマによる死傷事件。事件が起きたのは昭和45年7月14日、WV部の5人の学生は芽室岳からペテガリ岳迄の縦走のため入山し、芽室岳から主稜を南下し、23日、幌尻岳の七つ沼カールに至って、カムイエクウチカウシ山で縦走を中止する事にした。エサオマントッタベツ岳、春別岳を経て午後3時半に九ノ沢カールに到着しテントを設営。午後4時半夕食を済ませ全員テントの中にいたところ、テントから6~7mの距離の所にヒグマが居るのを一人が発見し、様子をうかがった。クマは周囲をうろつき外に置いてあったリュックをあさった。その後様子をうかがいながら、残りのリュックをテント内に入れ、火をたき、ラジオの音量を上げ食器を鳴らした。午後5時頃クマは姿を見せなくなった。この日の夜9時頃再びクマの鼻息がし、テントを引掻、拳大の穴を開けた。この日は2人ずつ交代で2時間交代で睡眠をとる。翌26日午前3時に起床し4時半にテントを撤収しようとした処、テントの上方に昨日のヒグマが現れ徐々に近づいてきた。全員テントの中で様子を窺ったが、クマはさらに近づいてテントに手をかけ侵入しようとした。そこで全員がクマとテントの幕を5分ほど引っ張り合ったが、これ以上無理と判断し一人が反対側の幕を開け、一斉に50mほど逃げた。振り返るとクマはテントを漁っていた。そこで5人のうち2人は札内ヒュッテか営林署に連絡をとるため、九の沢を下り下山。途中、他のパーティーに出会い、話をすると、そのパーティーもヒグマに襲われた為下山すると云う事だった。そのた為再び八の沢を登り、正午過ぎカムイエクウチカウシ山の稜線に出た。まもなく残った3人と合流し休憩をとった後、カムイエクウチカウシ山と1900m峰との中間ピークにて午後3時、テント設営を決定。その1時間半後夕食を済ませると、またも前日のヒグマが現れたため、全員60mほど下の方へ逃げた。その後ヒグマはテントをあさり続けた。パーティーのうち2人が八の沢カールにテントを張っていた鳥取大のパーティーの所に向かい、事情を話し今晩の宿泊をお願いする事にし、その後残りの3人も諦めて鳥取大のテントに向かった。途中で全員合流し歩を進めていたところ、午後6時半頃、最後尾の一人から10mほど後方に先ほどのクマを発見、全員一目散に逃げ、脇のハイマツに身を隠したが、25mほど下方で悲鳴が聞こえ、畜生と叫びながらクマに追われる様に一人が山を下っていった。その後3人は集合したが、襲われたと思われる1人と、他の1人は来なかった。3人は鳥取大のテントに行き、午後8時頃助けを求めた。鳥取大はそのまま下山し、3人は安全と思われる岩場に登って夜を過ごした。次の27日午前7時半に起床し、8時から行動を開始した。濃霧のため見通しが利かず、間もなくして下方2~3mの所にクマが現れうなり声をあげた。一人が逃げるとクマはそれを追った。残った2人は八の沢を下り、午後1時砂防ダム工事現場に到着事情を説明し車を待つ。その後ヘリコプターが救援に向かった。26日に仲間とはぐれた1人は、崖の下にテントと焚き火をしているのを発見しそこに向かったが、途中ヒグマに遭遇して一目散に逃げ、やっとの事でテントに到着したが、テントには誰もいなかった。その日はそこで一晩を過ごし、次の日テントを出ようとしたが、クマが居るのを発見したため、テントから出られなかった。彼はその後そのヒグマに襲撃された(襲撃の前までは本人の日記による)。28日、捜索隊によって3人の遺体が発見され、次の日には加害グマが射殺された。このような惨事になった最大の原因は物目当てのクマに対して2度にわたって、荷物の争奪をした事。そのためクマはその障害となる人間を徹底的に排除しようとしたもの。
事件は昭和51年、千歳市の風不死岳西尾根の独標571mの真西で国道276号から山側に120m入った所で起こった。6月9日午前10時半、11人の者がタケノコを採る為に国道の横に車を止め、正午に戻る約束で各自山に入った。ところが集合時間になっても、3人が姿を現さないため、集合していた中の2人が捜索に入った。すると国道から80m入ったササ藪の中にクマに襲われて倒れていた1人を発見、車まで運んで病院に仲間が運んだ。通りがかった車に警察に届けるように依頼し、残る2人を探したところ、さらにその奥で瀕死の1人を発見した。しかし傍にクマがおり近づいて来て危険なため、放置して全員車まで引き下がった。午後3時頃、警官と猟師とともに再び捜索を開始したところ、倒れていた1人の傍に依然クマがいたので、2発を発砲しクマをしとめた。倒れていた1人は既に絶命、行方不明だったもう1人も午後5時過ぎ、付近で遺体で発見された。なお、この事件の起こる前の6月4日午後、風不死岳の標高1000メートル付近で仲間5人とチシマザサを採っていた1人がクマに襲われて負傷している。また、同様に6月5日午前にも同岳の山林でチシマザサの子を採っていた1人がクマに襲撃され、怪我を負った。手口や大きさなどからいずれの事件も同一グマの仕業であると断定された。
音の鳴るものを利用しようと、威嚇しようと委細構わず熊が人を積極的に襲う場合がある。
◇人を食うために襲うとき。
この場合は覚悟を決めて対決するしかない。
武器なしには生還はまずあり得ない。極めて希と云えるが・・
◇2~3歳の若グマが戯れの対象として襲うとき。
この場合は強気に脅す、爆竹などで撃退出来る事もある。
最後は覚悟を決めて対決する。決め手は武器になるものを持っている事となりそう。
◇子熊を守るため母グマが先制攻撃
好奇心の強い小熊が、近づいて来る人間から身を潜めようとしない場合に子を守る為に人を襲う事がある。小熊に母グマがついて来て人への先制攻撃となる事もある。この場合は人の不注意で起きる事もあるが、排除以外の目的でヒグマに襲われた場合、反撃用武器を持っているかどうかが生死の分かれ目になる事を自覚した方が良い。山野での生ゴミの放置は内容によっては熊が居着く要因にはなるので、熊と遭遇する確率は少し高くはなるかも知れない。用心した方が良いと思うが人身事故事となった例は知らない。まあヒグマの居る所に行かないのが最善なのだが
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