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宗谷発祥の地ですが本来の地名はウエントマリで。地名の宗谷は沖にある弁天島が由来のようで、松浦武四郎は蝦夷日誌の中で「ソウヤ岩 一名弁天島と云り」と書いているが、広い場所を求めて船着き場を移した時に名前も一緒に移動した様だ。稚内に鉄道が開通する迄は宗谷が産業の中心地であった。宗谷護国寺跡、宗谷厳島神社、津軽藩兵詰合の記念碑、旧藩士の墓、間宮林蔵の胸像、中千島方面戦没者慰霊碑、蓮池ある。公園はフットパスの入り口にもなっている。
元禄以来、徳川幕府は新しい寺院の建立を禁じていたが、1802年、蝦夷地に5つだけ寺を建立することを許可。その後北方警備のため、秋田の藩士たちが駐屯する際に、先に建立されていた有珠善光寺の住職が1856年に宗谷場所の協力を得て建立した幕府直轄の寺院が「宗谷護国寺」で正式名は泰平山松寿寺護国寺。1912年に焼失し、現在の「宗谷護国寺」は位置を変え、1950年に再建。焼跡は、1957年に北海道文化財に指定されています。宗谷公園内に標柱と説明板があり、通年見ることができます。 ◆稚内市宗谷村字宗谷 通称・宗谷歴史公園内
宗谷厳島神社は、1782年奉納と記された「鰐口」が現存するところから一応、1781年に建立されたと考えられている。祭神は市杵島姫命という水の女神。現在の社殿は明治3年(1870年)、開拓使・竹田氏により修築されたものです。かつてはトンネルのように鳥居がたてられていたいたと公園内の説明版に書いてありました。
江戸幕府が外国から、今の北海道やサハリンを護るため夷地直轄とし、文化4年にただ単に寒さに強いはずという理由で、津軽藩士が宗谷に派遣されたが、厳しい寒さで多数の越冬死者を出したという。翌文化5年に、同じ東北の会津藩士が交代要員として派遣。会津藩士は、宗谷のほかに樺太、利尻、礼文にも駐留。宗谷公園に安置されている墓は、近くの海岸に点在していたのを明治時代に村民の手により1カ所に集め、さらに昭和32年現在地に移されたもの。
宗谷では多くの津軽藩士が厳しい寒さのため、水腫病などの病気で尊い生命を失いました。それから50年、日本の歴史に登場しはじめていたコーヒーが水腫病に対して効果があるといわれ、幕府は藩士たちにコーヒーを配給。コーヒーは薬として大切に飲まれ、治療に使われたといいます。コーヒーを知らずに亡くなった藩士たちを悼んで、藩士の故郷である弘前市の有志が中心となり建立したもので、平成4年に除幕されました。
宗谷岬の背後に広がる丘陵地帯で広大な牧場が広がっています。丘陵の高さ20mから高くても200mで、稜線も谷も丸みを帯びていて日本離れした光景。稚内の内陸部を特色づける丘陵は、周氷河地形のひとつといわれ、地表が凍結、融解の作用を繰り返し受けて稜線の角が崩れ丸みを帯びたなだらかな波状地形になってしまう。この波状の丘陵ができたのは、今から約1万年前に終わった地球最後の氷河時期、ウルム氷河期末期といわれています。周氷河地形は北海道の至る所で形成されたというが、開発などで消滅し広い範囲で周氷河地形が見られるのは宗谷丘陵と礼文だけ。2004年に北海道遺産に指定されています。全く人工物の無い周氷河地形は礼文島でも見られる。
宗谷岬の先端部、北緯45度31分22秒「世界測地系」の日本最北端の地を標す記念碑。北極星の一稜をモチーフに、中央には北を示す「N」、台座の円形は「平和と強調」を表しています。海に向かってこの地に立つと、前方三方が海、正面には遙か先「43Km」にはサハリンの島影が浮かび日本の最北端である事を実感させられます。国道238号線の拡幅とバスレーンや歩道があり、駐車場と花壇が整備されていて記念撮影ポイントとなっています。
宗谷の風物詩を歌った『宗谷岬』の歌詞と楽譜が刻まれた黒御影石の音楽碑が『日本最北端の地の碑』に程近い場所に昭和55年に建立された。平成14年には『宗谷岬』誕生30周年を記念して『30周年記念音楽碑』が建てられ、音楽碑の前に立つとメロディーが流れるようになっている。岬に行ったら音楽碑の前に立ち音楽を楽しんでください。
観光施設ではないけど日本最北の神社ですね。来た記念に参拝するのもいいかも。カウントダウンの時は日本各地から訪れた方で賑わいます。宗谷岬は日本の最北端と言われてますが実際は神社前の洋上に浮かぶ無人の島が最北端です。でも普段は開いていないでしょうね・・
宗谷岬から西へ3kmの第2清浜地区に『間宮林蔵渡樺出港の地』があります。文化5年4月13日、幕府から命を受けた林蔵は、松前藩役人と第1次樺太探検に出発。このとき林蔵は郷里から持ってきた墓石を海岸に建て、探検への覚悟のほどを示したという。同年、第2次樺太探検のためアイヌの船に乗って単身で出発し、トンナイで冬を越し、翌年5月に樺太を北上、樺太北端部まで踏査して樺太が島である事を確認しました。この時の探検地図が、後にシーボルトによって紹介され、樺太北部と大陸の間が『間宮海峡』と命名。
世界地図に唯一日本人の名を残した探検家、間宮林蔵の偉業を顕彰し、昭和55年7月に建立された。間宮林蔵が遙か樺太を望見している立像で、実物より2割ほど大きい、高さ2mのブロンズ像で日本最北端の地の碑際に立っている。彼が樺太に向けて旅立った地が第2清浜にある。ギャラリーにある胸像が宗谷歴史公園に有る。宗谷に関しては何故か間宮林蔵の評価が、他の地域に比べて際だって高いのが管理人には謎であるが、他の地域では松浦武史郎の方が人気であろう。
稚内では初めて、北オホーツクで唯一の松浦武四郎碑で松浦武四郎に思いを寄せる人々が呼びかけカンパを集めて完成した。碑のある所は稚内市街から宗谷岬へ向ヘ進み声問川手前カーブ山側の国道沿い。☆松浦武四郎は声問には弘化3年、安政3年、安政5年の三度訪れ、安政5年には声問川を遡り踏査、その時の内容を戊午山川取調日誌 西部 古以登以誌に残している。☆説明板の最後に「松浦武四郎踏査による東西蝦夷山川取調図完成150年を記念し、松浦武四郎の偉業を称え、後世に長くその遺徳を伝えると共に、アイヌの人達の助力に感謝する為有志相図ってこの宿営碑を建立する。平成21年12月6日 宗谷サロベツ松浦武四郎の会有志一同とある。アイヌ民族のおかれた惨状には触れていないが良心的な印象の碑。声問に説明板を建立するまで、かつて宗谷場所と呼ばれた北オホーツク地域には武四郎に関連する説明板等は殆ど無かった。
◇稚内市声問 ◇標高 8m N45°24’16” E141°45’07”
稚内のアイヌの伝承に関しては松浦武四郎の蝦夷日誌や西蝦夷日誌に誌されてるのは多いが、多くはカムイに纏わる話。ここでは代表的なのが龍神沼と竜神島、カムイと関係有りそうな宗谷付近の地名はウエンカムイチホマナイ、オニツルキマ等が出て来るが、カネクロ沢の地名や伝承の記載はない。寛政年間は和人が入り始めた頃で、伝承も和人好みで、教化目的の創作という印象が強い。
宗谷岬から8km程稚内寄りの国道238沿いにある伝説の地。カネクロサワ伝説とは寛政年間アイヌの娘が、失明した父親の回復を祈願して、宗谷厳島神社にお百度参りした処、夢枕に現れた弁財天のお告げで、この清水を探し当てたという。以来、カネクロサワの清水には眼病をもたらす悪魔を金縛りにする力があると信じられ、眼病を治す伝説の霊水なのだが、今はその面影も無し。
宗谷岬から海岸線を東浦方面に進むとまもなく海中に立つ大岩が見える。知志矢と云う地名の由来となった立岩状の大岩で時には海鳥が鈴なりとなっている事も。昔はアイヌ語でチシヤ=チシ・ヤ(立岩・陸岸)と呼ばれていた。松浦武史郎の廻浦日誌では「字チシ 前に小島有。地名は其を号るに」と。また西蝦夷日誌では「チシ 崖下 本名 チシヤにて泣と云事。昔此辺ヘ大魚来りしを、毎夜変化者取去りしと。(魚を奪われ土人泣たる所へ)シヤマイクル来り大なる石を投入て、変化の者を追ひしより号。又一説チシは高き事ヤとは岡とも云。前にポンモシリと云島有を号とも云」と数説挙げて公文書の廻浦日誌と一般向けの西蝦夷日誌の違いがででいる。日誌から察するに龍神島はかつてポンモシリとも呼ばれていた様です。サマイクルはアイヌ神話に登場する神で、力は強いが技能、智恵に劣る神。オキクルミが知恵有る正義の神だが、この関係が逆転したのもある。
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