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十勝川の河川敷地にあるハルニレの木が町のシンボルになっている豊頃町は十勝管内の東部にあり大河十勝川が太平洋に注ぐ。十勝川河口付近から大樹町にかけて海岸線には長節沼、湧洞沼など多くの湖沼が点在しその周囲は原生花園となっていて自然環境が残され、それほど観光地化されていないところだ。十勝川流域及の殆どは平地と湿地となっているが他の地域はなだらかな丘陵となり酪農を中心とする農業が盛んだ。十勝川の河口に有るだけに特産物は鮭にちなんだものが多い。
豊頃町のシンボルツリーで写真集などにも登場したハルニレの木は樹齢約130年、北海道には樹齢300年を超えるハルニレの古木も多いので豊頃のハルニレの木はまだまだ若輩者。国道38号線から町道をしばらく進むと十勝川沿いの土手に出られ西に向かうとはるにれ休憩所につく。そこから十勝川河川敷内で牧草に囲まれたなかにハルニレの木が見事に枝を広げているな姿を眺められる。豊寛駅前から無料自転車でハルニレの木までは15分ほどの距離。
茂岩市街地の北側高台にある公園でサイクリングコースやパークゴルフ場、テニスコート、野球場等のスポーツ施設とバンガローや焼き肉施設、野外ステージを備えたキャンプ場がある。茂岩山にはサクラやエゾムラサキツツジ等も多く自然環境に恵まれた公園で一部見晴の良い所もある。林間広場とパークゴルフ場の間に十勝ロイヤルホテルがありキャンプ場の受付をしているが公園管理棟でもキャンプの受付は出来る様だ。展望台も有るので旅の途中に立ち寄るのもいいが自転車ではかなりきつい。茂岩の入口には季節限定で豊頃町物産直売所がオープンしている。
展望台は茂岩市街から弥生町を抜け柏林の中を通る道を登ると駐車場につく。広場のまわりにはエゾ紫ツツジをはじめ各種のツツジ類や草花が植栽されている。展望台からは豊頃の町並みをはじめ十勝川と茂岩大橋が綺麗だが、果てしなく続く大平原と阿寒連山のパノラマも良い。絶景とまでは行かないまでもキャンプ場内にある展望地としてはなかなか。
◇豊頃町茂岩49番地 茂岩山自然公園内
茂岩山自然公園の麓でかつての利別太舟着場付近、今の茂岩本町にある「ポケットパークもいわ」が藻岩駅逓所のあった所という。その手前の道(道道 旅来豊頃線)がかつての大津街道。藻岩駅逓所は明治26牛に開設、初代駅逓取扱人は石井三之丞でした。建物は明治25年の大津街道開削時に使用した囚人小屋を払下げて移築したものという。明治44年頃に官設駅逓に昇格するが大正4年頃に火災で焼失、岩佐右門が土地を取得して駅逓を再開している。駅逓に関する遺構や記念碑はない。◇現住所:豊頃町茂岩本町「ポケットパークもいわ」
昭和54年に豊頃町の史跡に指定されたチャシ跡でAとBがある。Aチャシコツは、道々大津旅来線の海抜40mの高台に位置した壕幅5m深さ2.5mの二重壕で、築造巧緻。BチャシコツはAチャシコツから100mほど離れた海抜45mの高台に位置した壕幅1m、深さ0.5mの円形壕。Aチャシコツの方にアイヌ民族の伝説が残されている。
旅来シャシの伝説
『聞くタビコライとは首長タビコといえる者昔此城砦に於て戦死せしより名づけたりと。一説には十勝アイヌと日高アイヌ此処にて激戦し、大捷を博せし当時戦勝を祝賀せんが為「タップカル」の踊りを挙行せしより此名称起りたりと云々』安田巌城・宇田川洋・アイヌ伝承とチャシより。※豊頃町史にも伝説の掲載あり伝説集で紹介。史跡「礼文内第2チャシコツ」には小人伝説が有ったらしい。
太平洋岸に沿って日高から釧路を結ぶ国道336号には十勝河口橋が出来る迄は十勝川河口を渡る橋はなく豊頃大橋までの迂回をしなければならなかった。それまでの十勝川河口部では渡船による渡しで往来していた日本最後の「渡船国道」でした。桟橋はなく対岸に向けて張られたロープに繋がれた小舟で渡る昔ながらの「渡し舟」。この渡船も1992年に十勝河口橋が完成しその歴史的な役割を終え廃止、今は国道沿いに碑が立っているだけです。最近まで観光用を兼ねた渡船は浦臼町に残っていたが・・◇所在地:豊頃町旅来
寛政10年に東蝦夷地を幕府直轄となり、翌年の寛政11年に駅馬を十勝に送り、これを茂寮(広尾)と大津の2カ所に分けて、場所請負人の通行量において行客の便に当らせたとある。文化3年には大津に駅逓所の前身とも云える止宿所(通行屋)があった事が知られている。大津最初の定住者は大津に漁場を開いた青森県人、堺千代吉とされる。明治8年に杉浦嘉七が十勝場所請負人を辞し、新たに許可され若松忠次郎が十勝漁業組合を設立。この時に大津に正式に大津駅逓所と大津郵便取扱所が発足したとあるが詳細はわかりません。駅逓のあった所に十勝発祥の地碑が有ります。十勝発祥の地碑は道道320号旅来大津線の突き当たり。◇所在地:豊頃町大津港町
豊頃町の湧洞川に架かっている橋名で、近くに湧洞駅逓所が有った事に由来する。十勝内陸部の道路が出来てくると湧洞から十勝内陸部に入る人も増えてくる。湧洞沼口近くにあった湧洞駅逓所は大正2年に廃駅、昭和4年に移転し湧洞に再設置され、駅逓所の取扱人は丹羽清五郎氏でした。昭和18年に廃駅となっていますが、駅逓に関する遺構や碑などはなく、この橋名だけが残っています。◇所在地:豊頃町湧洞
浦幌町の浦幌十勝川河口と十勝川河口間の浦幌町側(内陸)には豊北原生花園、豊頃町(海岸際)にはトイトッキ原生花園という二つの原生花園が存在する。二つの原生花園は標高5から6mの砂丘に広がる喬木のない草原で高山植物と多くの他に海浜植物が自然の保たれた状態で群落を作り生育している。特にトイトッキの草原群落はガンコーラン、コケモモなどの高山植物が多く、群落の自然状態も極めて良い。ヤナギランの群落など他では殆ど見られない種類もあり、北海道の天然記念物に指定。案内板は国道に一カ所と現地に一カ所しかなく、浦幌町から入る方が迷わずに行けそうです。海岸線沿いに広がるトイトッキ浜の入口には原生花園の小さな看板があり、木柵のゲートで車は決められた道しか進めない。花の種類は少なめだが絨毯のように敷き詰められたガンコウランの上に密生して咲く花の多さには他では見られない。秋は釣り人の姿も・・・
昭和の初めから日本は侵略戦争に突き進み、軍国主義が頂点に達した昭和16年には第二次世界大戦に突入。 国内では戦争に反対する者への容赦ない弾圧、アジア諸国に対する植民地政策は重要資源の独占、アイヌ民族にしたように母国語を奪う同化政策を含んだ傲慢な試みだった。この侵略戦争に対し連合軍は反撃、追い詰められた旧日本軍は本土決戦を叫び、米軍の上陸に備え昭和19年に大平洋沿岸各地に築城作業を強化、広尾や大樹は防衛拠点とされたがほぼ道東の太平洋岸には陣地が設置されて、トイトッキ浜のトーチカもそのひとつ。だがこんな陣地で強大な連合軍の上陸など阻止できるはずもなく、命を無駄に捨るものとしか思えないもの。戦争の結果は誰もが知る通りだが、唯一の救いはこんな陣地で戦わなくて済んだこと。◇所在地:豊頃町トイトッキ浜
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