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『伝え云う。往時北見アイヌの一軍、我十勝に侵入し来り、凶暴残虐、沿道至処のアイヌコタンを侵掠し、此に抵抗せし男子は悉く惨殺し、行く行く将に広尾に迫らんとす。於是乎「メノコ」の一軍奮然起て、此「チャシ」に立籠り、激戦数回遂に大捷を得、遠く之を国外に掃蕩せしかば、その後この砦を「メノコチャシコツ」と呼称するに至れりと』河野常吉・河野常吉ノート・宇田川洋・アイヌ伝承とチヤシより。
『伝え云う。往時北見アイヌの一軍、我十勝に侵入し来り、凶暴残虐、沿道至処のアイヌコタンを侵掠し、此に抵抗せし男子は悉く惨殺し、行く行く将に広尾に迫らんとす。是に於て乎百戦敗余のチャンラロの娘ツンランケは一軍奮として立ち、これが防御にあたらんと決心したり。このツンランケ其名の如く、あか抜けしたる美人なりしを以て、附近の若者どもの心を領したりしなり、而して今此美人の奮起により、幾多の若者等に一切に奮い起りてこれに呼応し、激戦数回終に北見軍を敗走せしめ之を国外に放逐したりしかばこの後此砦をメノコチヤシと呼称するに至れりと』吉田厳・十勝のチャシ群・宇田川洋・アイヌ伝承とチヤシより。初めの伝承との違いはメノコと一緒に若者が闘った事。
伝説で恋人の実名が出てくるなどの話は、一般的に和人好みに脚色や創作されたのが殆ど。一般に知られている「アイヌ民話」のメノコチャシコツの話もその一つと考えてよさそう。ここでは要約のみ掲載『ある年、北見のアイヌが十勝に侵攻し、十勝利別の首長であったチャンラロは利別川の砦を捨て北見アイヌに追われ娘のツンランケと部下とともに広尾町の辺りまで逃れてきたが豊似アイヌの手を借り、豊似川沿岸に砦を築き、北見アイヌの侵攻に備えました。北見アイヌに対して報復の手柄をたてたものには娘を嫁にやってもよいというような事を漏らした。しかしツンランケにはポンシコテネという恋人がいた。激しい戦闘で砦の若者は次々倒れ、遂にポンシコテネまで倒れてしまう。敵と渡り合っていた娘ツンランケは敵の捕虜となってしまう。勝ち誇った北見の長は砦のチャンラロに「お前の娘は北見首長の妻としてもらっていくから、まだ何人か美人があったら送り届けろ」と無礼な申し入れをした。これを聞いたチャンラロは最後の力をふりしぼって反撃を加えて撃退したが敵の毒矢を受けて斃れてしまう。しかしこの隙にツンランケは逃げ帰り、ほとんど見方の男を失ってしまツタので女軍を組織して北見アイヌを追撃しついに北見アイヌを追い払ってしまった。』十勝史・更科源蔵編・アイヌ伝説集より元本は工藤梅次郎氏の「アイヌ民話」か?※国道から西に約1km豊似川右岸で東方向にチャシ跡の様なのがあるらしい。
『山の婆さんに一人娘があった。年頃になったので何処変へ嫁にやろうかと婆さんは考えたが、熊の神にもいい息子が二人あって弟の方がいいが声が大きすぎる。それでは雷さんの方はどうだ、こっちもまたひどい声を出すから娘がびっくりしてしまう。「さてどこさくれたらよいべか」と思案していると或るひのこと、鯱神のシアンペタント(本当の背鯱長)が突然娘を連れて行ってしまった。遠くに連れて行かれたので心配していると、毎年一度ずつ娘が戻ってくるので老婆も身体をさすりあって喜んでいた。或る年も娘が戻ったので抱き合って身をなでていると、それを一人の人間の男が立って見ていた。なんと無礼な奴があるものだと思ってよく見ると、それが文化神サマイクルカムイだったので、腹をたてたまま、あそこに座って動かなくなってしまったのだ(怒ったサマイクルカムイに岩にされてしまったということ)』芽室町・勝川ウサカラベフチ伝・更科源蔵・アイヌ伝説集より。
『十勝広尾町茂寄の海岸の山に夫婦の神様が住んでいたが、どうしたものかこの神様達は夫婦げんかをして別れることになり女神は遠くエトロフ島にいってしまったが、女神はどうしても十勝の事を忘れることが出来ないで、毎日毎日泣いてばかりいて暮らしていたのでその涙が凍ってしまって、その涙が夏でも融けない氷柱になってしまった。エトロフ島の原名エトゥロップとは鼻水の事で、女神の泣いたときの鼻水を意味し、十勝のアイヌがエトロフヘ行くと、この女神の怨みで病気になったり死んだりするという。それで十勝の原名トカプチという名も死という悪い意味で、そうした女神の怨みで死ぬ所から出たものであるという』吉田厳・人類学雑誌・更科源蔵・アイヌ伝説集より。※伝説ではトカチと言う言葉には良い意味はなさそうですが、エトロフやクナシリは強制労働と暴力に支配された監獄島であり一度渡ったら生きて戻れないとアイヌ民族には恐れられていた、そういう事とも関係あるのかも。
『十勝岳の上に湖があって、ここには鴎だの鯨だのイルカなどの海の動物がいる。これは山の神様が海のものを食べたいので、ここに好きなものを皆ここに持ってきたものだ。湖の波の音はちょうど海のように轟き渡り、女がこの山に登ると大嵐が吹き雷が鳴って大水が出るという。昔大津のアイヌが二人でこの沼を見に行ったきり帰らなかったというが、この湖に行ったら物の名をそのまま言ってはいけないと言われている。或る人が山狩りに行ったら戸の開く音がして「ポロピンネ ランナ(大きな牝が下るぞ)という声がしたと思うと、大熊が飛んできたので、それを獲って来たという。十勝でこの山に酒をあげないところはない。』池田町・山越三次郎エカシ伝※内容は幌尻岳の話と似ていますが、十勝岳が何処を意味するのか判然としないため日高山系の十勝岳と仮定して広尾町に入れました。
『古い地図にラッコ岳をオヌシャヌプリと書いたのがあるが、オヌシャヌプリ(そこに祭壇の有る山)は沢の入り口にある小さい山で、山にはいるときは必ずこの山に木幣をあげ挨拶して入らなければ生きたい所にはゆけない。ラッコ岳は昔からカムイシリ(神山)といって雷の出てくる山だ。昔は春秋二度弁財船が交易に来ていたが或る年の春にいくら待っても船が来ないので、老人達が集まって神に酒をあげて祈ったところ、途中で船が壊れて苦しんでいることがわかったが、一月ほどたって船の影が見えたので、小舟に車櫂を付けて漕いでいって見ると、帆柱も櫂もなくなって梶だけになって流されているので、それを助けてラッコベツの川上にあげて帆柱を直したが、あんまり船が大きくて出せないので、老人や婆達が刀や珠を下げて正装し、カムイシリの神に頼んだところ、朝から雨が降り出し雷が鳴って大水になり船を沖に出すことが出来た。カムイシリの神様は偉い神様だ。』広尾町・広尾又吉エカシ伝・更科源蔵・アイヌ伝説集より。
要旨を簡単に書いておく『東蝦夷日誌ではこの山に登ろうとすると忽ち曇りカムイトウ(豊似湖)より雲立ち上がり雷が大地を砕く如くなって降ると。別な人が又試みるも同じで、その者は間もなくなくなってそれ以後登ったものなし。アイヌに案内を頼んでも皆甚恐れて逃げてしまう。』東蝦夷日誌※こちらは恐れられていた山のようで和人にも知られていた話のようです。
『昔はヌプルベツ(巫力のある川)という意味で、流れが荒く石が踊り波が飛ぶ川だ。奥に行くと三叉になって一番大きいのがノビナイ、真中がルートルマップ、それとラロマップである。真中のルートルマップには女神がいて、川をあっちへ渡ったりこっちへまたいだりしたところだから、悪い病気(痘瘡の事)が流行ってきたらこの川を伝って山にはいると、病気の神様も追ってこないのだ』芽室町・勝川ウサカラベフチ伝・更科源蔵・アイヌ伝説集より。
『 エチキマイ 火ヲ取リシ處 直訳吾等ガ木片ヲ摩擦シテ火ヲ取ル處 往古神アリ火ヲ取リテ「シュウキナ(エゾニュウ)」を煮テ食ヒシ處ナリト云フ』北海道蝦夷語地名解伝承者不詳で、これが「アイヌ神話・エチキサイの伝説」の元ネタと思われる。一応紹介しておく。
『エチキサイとは我々が摩擦して火をつくったところという意味であるという。(此処までは特に問題はない)ムカシチキサニカムイ(楡の木)が暴風雨の悪魔と闘って勝ち、天の雷神と結婚して火を生んだのであるが、その新婚の両神が永遠の契りの印に、自らつくった火で、シュキナという草を煮て食べたところであるという。アイヌは春楡の樹木に落雷して火を発したところから火種をえたもので、春楡姫と雷神の結婚とは落雷を意味しているのであるが昔は火を得るのに、楡の来で火キリウスと火キリギネを用いていた。』中田千畝・アイヌ神話※文筆家の手にかかると煙があればボヤでは済まず大火事になるという事です。
『日高の襟裳岬を廻って黄金道路が十勝の国に入ったところに、ピタタヌンケプというところがある。昔十勝アイヌと日高アイヌがここで境界争いをし、アイヌの習慣として勝った者が負けた者の荷物を解き、負けた者の大事な宝物を選び取ったというのであるが、どちらが勝ったかは不明であるという。』工藤梅次郎・アイヌ民話
『一説には十勝アイヌがここに住まっていたアイヌを襲って、この土地のアイヌが負け、やむなく十勝アイヌに自分の宝物を選びとらしたという。』中田千畝・アイヌ神話・更科源蔵・アイヌ伝説集より。※この話は東蝦夷日誌や北海道蝦夷語地名解にもあるがもっと簡略化した記載です。
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