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北は狩勝峠から南端の襟裳岬まで広大な地域が日高山脈襟裳国定公園だ。えりも町は日高山脈の先端が太平洋に沈む町。襟裳岬は西太平洋と東太平洋に面し日本でも有数の強風でしられる。岬の沖合は黒潮と親潮が出会う好漁場で豊かな水産資源に恵まれている。なかでも日高昆布は有名。岬の岩礁帯にはゼニガタアザラシが生息しているがその数は300頭前後で約道東に生息するゼニガタアザラシ6割が暮らしている。また日高山脈襟裳国定公園内唯一の自然湖・豊似湖があり新北海道の三大秘湖と。湖周囲にはナキウサギが生息している。
えりも町郷土資料館では日高山脈の岩石、マンモス、埋蔵文化財、場所請負制度、アイヌ民俗画、黄金道路、百人浜の緑化事業、野鳥やゼニガタアザラシについての展示、えりも町の自然と文化、歴史を総合的に紹介している。『えりもの植物』図鑑などの出版物もあるが猿留山道の情報に関しては此処が一番です。水産の館は、えりも町の漁業を紹介した展示。『ほろいずみ』は『えりも町』のかつての村名です。猿留山道に関する松浦武四郎紀行文のほぼ全文を公開展示、また松浦武四郎のコーナーもスペースを別にして紹介・展示している。◇えりも町字新浜207番地 TEL:01466-2-2410
風速10mの風が吹く日が1年に290日を超える襟裳岬にその強風を有効利用しようと建てられたテーマ館と併設の展望台です。襟裳岬灯台を含む地域の景観や植生を考慮したデザインしたというが管理人の頭脳では理解不能。わかるのは風のテーマ館らしく風速25mの世界を体験する事が出来るという事。展望台横には森進一と島倉千代子の「襟裳岬」歌碑がある。当然のことだが、襟裳岬の景色を楽しめるほか望遠鏡があればアザラシウオッチングも可能だ。撮影目的なら岬先端の展望台から望遠レンズは必須、デジスコが有れば最高かな・・・◇えりも町字東洋366-3 TEL:01466-3-1133
日高山脈の南端に位置する襟裳岬。岬先端からから沖に2kmにわたって大小の岩礁群が点々と浮かべながら太平洋に徐々に沈み込み込む。岬の沖は黒潮と親潮がぶつかる潮境となつていて北海道有数の好漁場になっている。その豊かな海と岩礁帯がアザラシの生息を支えるとともに日本有数の繁殖地にしている。植物は丈が短く茎が太くなることで厳しい自然環境に適応し名産日高昆布を作り出している。また襟裳岬は日本屈指の強風地帯で風力発電の施設も有る。◇えりも町東洋襟裳岬
森進一が歌う「襟裳の春は何もない春です」の歌詞通り襟裳岬先端部は強風のため草木もまともに育たない荒涼とした風景だ。その台地にたつ襟裳岬灯台は『日本の灯台50選』にも選ばれた白亜の大型灯台。海上保安庁の職員が1週間交代で管理していたが2005年から無人化された。初点灯は1889年と歴史有る灯台です。1945年に爆撃で破壊されたが1950年に再建された灯台で、光達距離は約42kmという事です。
ここはかつてかつて灯台山と呼ばれ明治24年に小高い山へ木造やぐら式の灯台が設置されたが、昭和3年に灯台は建て替え、昭和53年に観音山(住吉山)に新築移転。そのとき不要になった灯台を町が国から譲り受け、灯台山(約17m)を切り崩し平地にして旧灯台を幌泉灯台記念塔として保存したもの。つまりは現役リタイヤした本物の幌泉灯台が展示されているということになります。灯台以外にはステージとベンチ、トイレが有るだけで、こぢんまりとした広場に近い感じたが、スペースは広く地元のイベント等で利用される事こともあるが、観光用というよりは地元ための公園という印象。公園入口は標識の手前または先にある交差点から海側へ入り回り込むと公園の裏側にでる。ビバークや気軽な休憩にはよい。◇所在地:えりも町字本町53-1
えりも岬から広尾へ向かう途中にある美しい砂浜が続く海岸。百人浜の地名については岬周辺海域で南部藩の大型御用船が遭難し、多くの遺体が浜に打ち上げられ、生き残った人々も飢えと寒さで亡くなりその数が100人にもなったという伝説から百人浜と云われる。百人浜の地名は古く寛政3年に文献に登場するが、その当時の南部藩には御用船はなかったという。松浦武四郎の東蝦夷日誌には『其義、昔し一夜の時化に大船多く打上、水夫百余人死せりを埋めしとも、又往古幌泉アイヌ日高アイヌと戦て、その死骸を埋めしとも言えり。』と、諸説あり真実は謎ですが、詳しくは『えりも町郷土資料館』のサイトを御覧ください。
砂浜が広がる百人浜の北、一石一字塔の傍らにあるにある周囲380m、水深約0.7mの沼。この沼にまつわる和人『久作』とピリカ『マエラ』の悲しい恋物語がある。民族の争いの中出会った二人は、恵まれぬ恋に嘆きあの世での再会を誓い襟裳岬に砕ける波を後にして別れた・・・。それから誰いうとなく悲しい恋の涙で出来た沼『悲恋沼』と、時代背景にも合致する物語には現実味はあるも、どうも和人好みのストリーに仕上がっていて信憑性が???。悲恋沼周辺は海浜植物が群生しており遊歩道も整備されている。
えりも岬はかつて広葉樹を主とする原生林で覆われていたが開発で原生林は切り開かれた岬は強風にさらされ砂漠化してしまった。大地から強風によって巻き上げられた赤土は海上10km沖合いに達し、漁業に及ぼした影響は計り知れないものが有りました。その岬の緑化は大変で半世紀をかけてここまで回復させたものです。緑化に使われたクロマツだけが砂漠化した台地を生き抜いた唯一の木でしたが、今度は元々この土地に生えていた木々を植えて植林前の前の森に戻していく段階に入ってきた。展望塔は高さ4階程ほどで窓が自由に開けられ眺望は完全に360度と見事。
文化3年に海難者の供養のため百人浜にたてられたという慰霊碑。かつては現在の地より東側の渚近くにあったが、昭和31年に百人浜の悲恋沼近くの国道沿いに移設された。平成14年にえりも町文化財に指定されている。襟裳岬周辺は風が強く多くの船が難破した難所で知られる。一石一字塔の碑文によると海難事故による遭難者の魂を鎮魂するため、蝦夷三官寺の一つ様似等樹院の住職が、百人浜で法要を執り行ったということです。一石一字塔は等樹院の境内にも建立されている。◇所在地:えりも町字庶野
江戸期のえりも町には会所(運上屋)が3ヶ所、他に通行屋が1ヶ所置かれていたようだが岬地区には番屋だけのようです。幕末にえりも(小越)に定住していた和人は、慶応年間に渡道した青森県出身の柳田勘次郎を含め数名だったという。明治から大正期の交通事情でえりもは海路に頼ることが多いが岬は海の難所、山道を利用するにしても難所が多くあったため駅逓が必要とされ1916(大正5)に小越駅逓所設置された。駅逓取扱人は漁師から廻漕業に転身し船宿もあった柳田伊之吉~柳田伊之介でした。駅逓は交通網の発達により1928(昭和3)年に廃駅となったが、廃止後も駅逓旅館の看板を張っていたという。その後も「柳田旅館」として営業していたが、世代を重ねての老巧化には勝てず平成六年に旅館を解体、現在はモダンなクリフハウス柳田旅館となっているが元の場所から少し移動している。◇所在地:えりも町字えりも岬59
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