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本別駅のそばにある義経山の伝説です。『十勝池田から北見市に通じる池北線の本別駅(既に廃線となり駅舎のみあり)付近に、俗に義経山と呼ばれている山がある。古い名はサマイクルカムイサンテと云うのであって天地創造神の乾し棚という意味であるが、昔この附近がまだ海であった時代にサマイクルカムイがここで鯨をとって料理したところであるといい、山の上には今もその時の鯨が岩になったまま残っているという』永田栄集・更科源蔵編・アイヌ伝説集より
『義経山(294メートル)は昔、サマイクル・サンとよばれた。サマイクルの干し棚という意味である。サマイクルは、人間の生活に必要ないろいろなことを教えた文化神である。ある年、サマイクルが12匹のオルケオカムイ(おおかみ)を引きつれて、いまの義経山に家をつくって住みついた。そして、まいにちのように幾匹かのオルケオカムイを、かわるがわるつれては狩りに出て、とった獲物の肉は、頂上に干した。狩りに出ないオルケオカムイは、干し場の番をした。12匹のオルケオカムイには、それぞれ名前があったという。サマイクルが狩りに出て、散らばっているオルケオカムイを呼び集めるときには、いつもチョーチョと連呼した。すると、たちまち、サマイクルのところに駆け寄っていくのであった。アイヌが犬を呼ぶとき、チョーチョというのはサマイクルをまねたのだという。』本別町・清川ネウサルモンフチ談・本別町史・本別町サイトより、以降サイト名のみ表示とする。
『義経山の隣に山の峰が本別町の方へせり出したところがあり、ここはお祭りがあるたびにオチルシオンカムイ(峯の神)といって、酒をあげて祈願するところであるが、昔この辺りが見渡す限りの蒼海原であったとき、山の神様が鯨をとって食べて、その頭を投げたのがこの山になったのであるという』池田町・山越三次郎エカシ伝・更科源蔵編・アイヌ伝説集より
『フラツナイ(現在のパンケフラツナイ川)の、現在、墓地のあるところよりも、もっともっと奥の方に、年中、草や木が枯れない暖かいところがあって、そこに、あの世へ通じている地獄穴(オマンルパロ)があるという。穴の入口のそばでは、老人たちが冬でも、ふきをとって食べていて、人が行くと、手招きをするそうだ。それを見た者は、かならず死ぬと伝えられているので、だれも近づく者はいない。』本別町・清川ネウサルモンフチ談・本別町史・本別町サイトより。同じ話が更科源蔵編・アイヌ伝説集にも「本別の地獄穴」として掲載されている。
・チホマベツの伝説
『押帯川と美蘭別川の中間に、チホマベツという利別川にそそぐ小川がある。チホマは悪霊のひそむ、ベツは川という意味である。おさない頃、近寄ってはならないと母(清川ネウサルモン)にきつくいわれていた。昔、敵の死体を投げこんだところらしい。』本別町・清川武雄談・本別町史・本別町サイトより。
・チホマベツの伝説
『チホマペッは、昔戦争があったとき、チャシの処にシサムが一人死んでいたのでチホマペッという』本別町・清川サダフチ伝・宇田川洋・アイヌ伝承とチャシ※チャシは確認されていないらしい。
本別町はピリベツに、ケネウイトッパといってマスノスケといって大鱒の祖印をもつ人々があった。家紋とする一族があります。マスノスケ(キングサーモン)という大鱒は陸に上がって蕗を食ったり、人間に化けたりする事があると言い伝えられているが、この人々の先祖が或る日ピリベツ川に蕗を採りに行ったところ、一人の女が鼻歌を歌いながら蕗をとっていたが、男の姿を見てびっくりして川に飛び込むと、大鱒の姿になって逃げようとしたので、男は褌を外して川に飛び込み、股をひろげて鱒の逃げ道を塞いでしまったので、仕方なく鱒は又陸に上がって女になり、その男の女房になった。その子孫は大鱒であることを表すために、ケネアイトッパ(大鱒の祖印)を用いるようになったという。』池田町・山越三次郎エカシ伝・更科源蔵編・アイヌ伝説集より
躓(つまづき)石の由来は、義経と弁慶ら主従七人が追われて日高、静内をあとに山脈を越えて十勝に入る。本別沢に館を作ろうと弁慶がアイヌを案内に地形を調べに活込まで行き休憩していてふと見ると、目の前の大きな石が大将の腰掛けにちょうどいいと、担いで帰ってきたのは良いが空腹でふらふらだったので庭先に投げておいた。まだ暗いうちに起きた義経は、それを知らずこの石につまづいて転びそうになった。それを見て弁慶は大将が石につまづいたと大はしゃぎした。だいたいはそんなストリーなのだが、本別は義経に好意的なところだったようだ。その義経伝説由来の石は。本別町史・本別町サイトより。
『利別川は冬に結氷するが、早春に雨が降ったりして一度に増水すると、上流の氷が水に押し流されて、その圧力で下流の氷が割れて飛ぶことがある。この氷が飛ぶことをカンチュウと言うが、本別町の僅か上流で利別川の縁にオトゥイピラという崖がある。ある冬に雨のために氷が押し寄せて来て、上流のウトマンピラのあたりで氷が飛びそうになったので、それを見た一人の女がこの崖のところから、下流のチエトイというコタンに向かって「カンチュウ サン ナ キラ ヤン(カンチュウがおりるから逃げろ)と叫んだ。この崖からチエトイコタンまで一里もあるのであるが、神様がこの女の人に声が遠く届く力を与えていたので、チエトイまでその声が届いたので、コタンの人が待避していると、カンチュウがチエトイへ物凄い勢いで飛んできたという。』永田栄輯・更科源蔵編・アイヌ伝説集。
『本別町から僅か上流の対岸に、ウトマンピラという崖が利別川に突き出ている。昔戦争があったとき、老人の夫婦が逃げてきて、ここで抱き合って寝たのでウトマン(抱き寝する)ピラ(崖)といったと伝えられている。又一説には、悪い猟師がいて、女をさらってきてここで抱いて寝たので名付けたという。いずれも不完全な形でしか伝え残されていない伝説であるが元来は、崖の形が二つ並んで人間が抱き合っているような形をしていることからつけられた伝説であろう。』永田栄輯・更科源蔵編・アイヌ伝説集。
『キロロのチャシの崖の下には、昔、大きな沼があった。釧路アイヌや北見アイヌがたびたび攻めてきたが、木陰や、やぶの陰に隠れて忍び寄る敵の姿が、チャシから見ると沼にまるうつしとなるので、いつも防備を固めて、敵を敗走させることができた。』本別町・清川ネウサルモンフチ談・本別町史・本別町サイトより。
・ニカルシビラの由来
『ある冬のことであった。釧路アイヌが、多勢で、本別地方に攻め寄せてきたが、地元アイヌに反撃されて全滅した。敗色濃いとみて、報告のため、いち早く戦線から離れたひとりの釧路アイヌは、かんじき(チンル)を逆に履いて崖下にたどりつき、ぶどうづるをはしごにしてよじのぼり、無事に逃げ帰ることができたという。いらい、この崖は、ニカルシビラとよばれるようになった。なお、この戦いで捕虜にしたひとりの女は妊娠していたので、命を助けて十勝で嫁がしたという。』本別町・清川ネウサルモンフチ談・本別町史・本別町サイトより。
・ニカルシビラの由来
昔のこと釧路アイヌがニカルシピラを超えて攻めてきた。ニカルシは梯子の事。ピラは崖。足寄と仙美里の間にある崖の事だが、そのとき釧路アイヌが梯子をかけて登ったので地名になった。「釧路アイヌが攻めてきた」との知らせが入り、アイヌ達はチャシに集まって利別川上流に向かって備えた。ところが敵はなかなかやってこない。そのうちに、利別川を、蕗の茎が沢山立って流れてきた。「おかしな事があるもの」と見送ったら、なんとこれは釧路アイヌが、蕗の茎で呼吸しながら川水の中に身をひそめてチャシの下流にまわったものであった。思いもかけぬ下流から攻めたてられた十勝アイヌは一時混乱したが、陣形を立て直して奮戦、釧路アイヌを全滅させた。釧路勢にはおなかの大きな女だけは殺さず、捕虜にした。昔のアイヌはたとえ動物であっても、おなかの大きいものは殺さなかったのである。』※足寄町の伝説では砦にいた老人が逃げる事になって結果が異なっている。仙美里ダムの貯水池東岸の足寄町域にある崖で、上にはチャシコツがある。ニカルシはニカルウシの略という。上利別にも同じ伝説があった。
『キロロのむこうのチャシ(現在のシンコチャシコツのこと)と、そのむこうのポンチャシ(現在の八幡チャンコツ)からは、利別川の上流はもちろん、ポンベツ、ビリベツの合流点や上浦幌の丘の斜面まで見わたすことができた。この他に侵入する者は、すべてチャシの前に姿をあらわさなければならなかった。ある夏の日、利別川の上流から、ふきの葉がたくさん流れてきた。実は、釧路アイヌがふきの茎をくわえて呼吸しながら、水中にもぐって奇襲をかけてきたのであった。しかし、本別アイヌの酋長に見破られ、手薄なはずのチャシの下流にまわったところを、待ちかまえていた本別勢に囲まれて、ひとりだけを残して全滅したという。』本別町・清川ネウサルモンフチ談・本別町史・本別町サイトより。※足寄町上利別北の利別川の支流「トミルベシペ沢の伝説」として別説があるが戦いの結果は逆となっている。清川ネウサルモンフチは本別町のユーカラ伝承者で明治以前の生まれかもしれないという。資料によっては清川サダとなっているかもしれない。また同じ話であっても伝承者が違うと内容が変わる事も。
『現在の活込ダムの人造湖になったところを、昔はニセイ(深山にあって川岸にかぶさるように出ている崖)といった。昔、ここで、川をはさんで石合戦があったという。』吉田巌・とかちあいぬ研究・本別町史・本別町サイト。
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