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「此川本名トカチ也。其地名の訳は昔し此辺に小人が住し由なるが、蝦夷人始て此処へ来りしかば、小人窓より魚を出して与へしが、未だ夷人は魚を喰する事をしらざりし也。其魚を取捨て、小人の腕を持て引しかば、其腕抜て小人は逃去りし由。其逃る時にトカチトカチと云て去りしと。トカチは魚が無と言事なりしとかや。よつて此トカチの方至て魚少し。」松浦武四郎・竹四郎廻浦日記
『昔、コルポックルという神様だか人間だかが十勝には沢山いた。とても根性のよいもので、熊をとっても鹿をとっても魚をとっても、それを持ってきて顔を見せないでアイヌの家に入れてくれた。或るとき鹿をとって肉を入れてくれたのを、肉を持った手がとても綺麗だったので家の中に入れたら、唇や手の甲にも綺麗に入墨をしてあったが、ひどく腹をたてて「いつまでも十勝にいようと思ったが腹が立ったから他に移るが、ここの国は段々枯れるように衰えてしまうから、これからトカプチと言え」といって本州の方へ行ってしまった。それでトカプチと言うようになった。』芽室町・勝川ウサカラベフチ伝・更科源蔵・アイヌ伝説集より。
『昔アイヌがこの地方にいたコロポックル(蕗の下の人という意味で、1枚の蕗の葉の下に数10人いたと伝えられる小人)を追い払うとき、十勝川で溺らして殺したことがあった。そのときコロポックルは溺れながら、「吾々をこんなに虐殺するお前達も又、魚皮の焼け焦げるような運命に逢うだろう」と叫んで死んだので、トカップというようになったという。トカップとは魚の皮の意味であるという。一説には、昔有珠嶽の麓にカナメという一族であったが、或る年の有珠嶽の噴火のため麓の部落は熔岩のためにあらされ、多くの人々が死傷したが、カナメの一族だけはその災害からのがれて十勝の国へ移ることになった。そのカナメの一族の落付いたところはシベというところであって、シベとは鮭のことで、鮭の豊かな土地であったので、彼等はここで豊かな平安な村をつくっていたが、或る時の集りにこの一族の中のサピンノトクという者が、「この頃朝になると誰が置いて行くのか、枕元にきっと2、3尾の川魚が置いてあるが……」と不思議そうに話したところ、それは彼の家だけではなく、どこの家もそうであることがわかった。そこでサピンノトクは或る夜その正体をつきとめるために、眠らずに待っていると、夜中頃に真白い手が戸の隙間から差し入れられ、3尾の川魚を置いたので、すかさずその手を押えてみたところ、それは身の丈が1尺ほどの唇や手の甲に入墨をしたコロポックルの女であった。サピンノトクはいやがるその女を酋長の家に連れて行きいろいろと訊ねたが、女は泣くだけで何とも答えなかった。一方、コロポックルは酋長の娘がアイヌにさらわれたことを知り、シベ部落に押しかけてその娘を奪い返したが、その時アイヌに向って「アイヌ共、呪われて若死しろ、早く歳をとって髪も早く白くなり、鮭の焼け焦げるように苦しんで死ね」と呪いの言葉を投げつけた。』北海道史『その為かカナメの一族は年頃になると皆若死にしコタンの影さえ無くなってしまった。現在のアイヌはその後石狩や釧路から来たアイヌの子孫であるという。それ以来シベとは言わずにトカプチというようになったという。』酒井章太郎・十勝史
むかし、然別(しかりべつ)の上流にコロポクウンクルという小人が住んでいました。とてもやさしく、ときどきアイヌの人たちに食べ物をさし入れたりしていましたが、すがたを見せる事はありませんでした。ある日、家の入口から食べ物を入れようとしたところ、そこの家の人がすがたを見てやろうと手をつかんで強引に家のなかへ入れました。コロポクウンクルはとても怒って「ここはシアンルルとよばれるよい所だったが、これからはここをおっぱいが涸れるように運が悪くなるという意味のトカプチとよんでやる」といってどこかへ行ってしまいました。それからここはトカチとよばれるようになったといいます。帯広市リウカの公式サイトより
『大昔、この辺りにコロポンクルというとても小さな人たちが住んでいた。昼はかくれていて働かないけれども、夜になると5人から10人くらいが、この辺りの川で数捜の丸木舟に乗って魚をとっていた。そして、コロポンクルは、そのとった魚をアイヌのチセ(家)のすき間から手首だけを出して差し入れ恵んでいた。しかし、決して姿は見せなかった。どうも不思議なので、ある時アイヌの若者が正体を見届けてやろうと思って、魚を差し入れた手首をムズとつかんで有無を言わせずチセの中に引き入れた。すると、とても小さなきれいなメノコ(女性)で腕には入墨をしていた。ところがコロポンクルたちは、姿をいれずみ見られたことを非常に怒ってアイヌをうらみ、どこともなく舟に乗って去って行ってしまった。その去って行く時にアイヌは若くても早く死ね。永生きするな。髪もひげも早く白くなれ。忘れるな。といい、トカチという名をつけていった、とのことである。』吉田巖日記・帯広叢書第23巻
『昔、アイヌがはじめてこの地方にきて住むようになったころ、コロポックルという小人の先住者たちがいた。この先住者たちは、昼は隠れていて、夜になると、川に2隻の丸木舟をならべて浮かべ、舟べりを叩いて漁をした。アイヌが食べものに困っている時は、入口の隙間から、そっと魚を入れていくのだが、姿は見せなかった。ある日、若いアイヌが、魚を差し入れる手首をつかんで、むりに引きいれてみると、顔や手にイレズミをした美しい女であった。怒ったコロポックルの一族は、この土地から去り、再びも戻らなかった。アイヌのイレズミは、このコロポックルをまねたものである。』本別町・清川ネウサルモンフチ談・本別町史・本別町サイトより。※十勝のコルポックルで気になるのは「戸の隙間から差し入れた」という部分、記録時の勘違いか、それとも十勝の特徴なのか?「入口の隙間」とほぼ同じ、古い松浦武四郎の記録は窓(神窓の事?)とあり、宗谷の伝説などは窓になっている。アイヌ民族と先住民族の争い、先住者というのが注目される部分でしょう。コルポックルは-korpokunkur-コルポクウンクル、korpokunkurkamuy-コルポクウンクルカムイ-蕗の下いる人(神)という意味で、「小人」という意味はありません。別名としてトイジンカムイ、トンチカムイ、トイチンカムイ、トイチセ、コッチャカムイとしてチャシや竪穴住居跡と結びついて出てくる。十勝から北見(一部)ではトイジンカムイとかトウジンカムイの住居跡という形で伝えられていたようです。トイチセは北方のアイヌ民族が使用した半地下式住居で竪穴式住居とは異なるのですが、伝説では竪穴住居跡を含めポロポックルの住居跡として出てくる。
『十勝ノ元名 往昔 十勝アイヌ極メテ凶暴常ニ侵略ヲ事トス 他ノアイヌ之ヲ忌ミ「トカプチ」ト呼シト云フ(またトカプチという以前はシアンルルと呼んだというとも記す)』北海道蝦夷語地名解これは中田千畝のアイヌ神話の元ネタになって書かれているみたい・・・
『十勝国川西村の売買の川向を昔は鵺抜(ぬいぬっけ)村といった。ヌイヌッケとはムイウンケプという言葉が縮ったもので、ムイ(箕)ウン(ある)ケプ(高台)と言うのであるという。昔、天地創造の神サマイクルカムイがこの土地に来たとき、津波のために一面が泥海になってしまい、一頭の鯨が漂流してきたので、サマイクルカムイはアイヌ達を集めて鯨を切って蓬の串に刺し、それを焚火で焼いていたところ、大きな音をたてて火がはねたので、サマイクルカムイはびっくりして尻餅をついた。その為にこの高台の一部が箕のような形に凹みが出来たので、ムイウンケプと呼ぶようになったという』安田厳城・十勝地名解・更科源蔵・アイヌ伝説集より。※帯広市では安田厳氏の学樹的な研究で残された膨大なアイヌ関連の資料を保管しており閲覧も可能ということです。
『帯広市の隣、伏古にカムイトーという沼がある。もとこの沼はチオマトー(腐敗した沼)というのであったが、大正五年にこの附近に神社を建てることになったので、カムイトー(神の沼)と改めて呼ぶようになった。昔日高染退(シブチャリ・現-静内)アイヌと十勝アイヌとの間に掠奪戦が起こった。日高染退の軍勢は60人であって、その勢いはたちまちに十勝勢を圧迫して、危うく日高軍の勝利に帰そうとした。その時十勝の一人の予言者が火の神に祈りをあげてから、家の裏に祭ってある祭壇の方にいって踊り、味方の士気を鼓舞したので、戦況はたちまちに一変して十勝軍を激しく攻めたてた。六十人の日高勢はなだれをうって退去したが、空腹のため退去も自由にならず、やっとチオマトーまでたどりついたところ、水鳥が沢山いたので、夢中になってその鳥を獲って腹を満たしているうちに、十勝軍にすっかにされて逃げる道を断たれてしまったので、皆沼の中に飛び込んで溺死してしまい、その屍体が腐ったのでそれ以来チオマトーと呼ぶようになったという。なおこの60人のうちたった一人イウシテテクンベ(後生に話を伝えるため神の命令で生き残った者)として生き残った者が、雪輪を逆さに履いて足跡をくらまし、ウレカレッヒの川を渡ってやっと日高に逃げ帰ったので、ウレカレッヒというようになったと言い、士幌町の原名シュオルペツ(鍋川)も日高のアイヌが鍋を置き忘れたところから名付けたものであるという。』安田厳・心の碑他・十勝史・アイヌ民話・更科源蔵・アイヌ伝説集より。
要約して掲載『日高アイヌの襲撃をうけた、猿別アイヌの首長サアシコトナイ以下35名は必死に防戦し相方対峙すること二句余猿別アイヌは籠城していたため食糧に窮していた、それに乗じて日高アイヌの攻撃は激しさを増し、猿別アイヌにとっては癒々最後の日が近づいていた。時しも俄に黒雲が現れたかと思うと大地を震わす荒天となり、包囲していた日高勢が大木の下に逃げ込んだ隙をついて猿別アイヌは血路を開いて脱出を試みるも、六人の者が包囲網を脱したのみで、他は敢えなき最後を遂げた。』宇田川洋・アイヌ伝承とチャシより。※金比羅神社アチャシ跡で出土物より370年ほど前に造営されたと考えられている。
少し違ったタイプ・夢ある法螺ばなし?『北海道十勝の忠類村(現・幕別町)にある埋蔵金伝説。場所は市街地の北部にある丸山で、かつてアイヌの人たちはこの山をチョマナイと呼び、「魔の山」と恐れた。伝説によると、幕末、このあたりを根城にご用船を荒し回っていた海賊船「鬼雷丸」が、松前藩に追われ財宝を丸山に隠したというのです。帰途、襟裳岬沖で難破、大正時代にその生き残り・阿部健白の子孫が息子に秘密を打ち明けたとされています。』丸山の財宝探しに挑戦した方々はいますがすべて失敗という結果に終わっている。夢のままで置いておくのが一番かも。確か新得町にも秘宝を隠したという伝説が、こちらも失敗だったようですが・・二つの場所に共通するキーワードは「恐ろしいところ」です・・・
『利別川筋の処所にある沼には昔から河童がいるといわれ、池田町の沼、本別町のケナシにあった大きな沼にも、フラツナイの沼にもいたと伝えられ、格好は頭が禿げていて、ポン・エカシ(小さい老爺)だが、ポン・フッチ(小さい老婆)だかはっきりしないが、時々「フン」という大きな声を出すもので、海に生きたくなると大水を出すものだ。』本別町・清川ネウサルモンフチ伝・更科源蔵・アイヌ伝説集より
『十勝川第一の支流利別川にフンペポオマナイ(鯨の骨ある川)という川があるが、この川は或る年の大津波でこの附近の人が皆死んでしまったとき、鯨も津波におされてきて骨だけが残ったところであるという』音更町・細田カタレフチ伝・更科源蔵・アイヌ伝説集より
帯広市南部の売買地区はアイヌ語の「ウレカリップ」に由来し商売とは関係ありません。『昔十勝の国になぜか鹿が住んでいなかった。そこで何とかして十勝にも鹿が住むようにしたいと考えて、頭のいいアイヌの一人が、鹿の足跡に似た杖を作って、それで雪の上に鹿の足跡らしいものを沢山つけておいたので、それ以来日高の方から鹿が入ってきて棲むようになった。それでこの地をウレカリップ(足跡を作った所)というようになったという。現在の十勝国川西村の札内川の左岸の地名で字売買といっているところである。』酒井章太郎・十勝史『一説には昔石狩のアイヌが十勝のコタンを襲って宝物を掠めとろうとして、密かに偵察の人を忍ばせたところ、そのコタンの人達に気付かれ、追われたとき雪の上を歩く雪輪を反対に足につけて逃げ、まんまと十勝アイヌの目をくらましたので名付けたという。』安田厳城・十勝地名解・更科源蔵・アイヌ伝説集より。もう一つは『チョマトーにも雪輪をわざと逆にはいて追っ手の目を眩ませたのでこの名が付いた』とあり。チョマトーを参照。
芽室町を除き十勝のコロポックル伝説は出来るだけまとめた。この他に松浦武四郎の戊午日誌に数話収録されている。トカプチは「水は枯れろっ、魚は腐れっ」という呪いの言葉というが、それが地名になるとは思えない。
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