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明治23年に十津川村からの集団移住者達がトック原野に入植したのが町の始まり。基幹産業は稲作を中心とした農業で、かつては冷害に強い水稲品種を自ら開発、道内でも有数の米作地帯である。昭和32年の町制施行で新十津川町となる。昭和30年代には人口1万千人を越えていたが次第に減少する過疎化が進むなか平成2年には開基100年を迎えている。新十津川町は空知のほぼ中央部にあり石狩川の右岸に位置し西部はピンネシリ岳や暑寒別岳が連なる山岳地帯で、そのほぼ中央を徳富川が東西に流れている。町名は母村の十津川に由来。
かつて札沼線は札幌と留萌本線の石狩沼田を結ぶ線で新十津川駅はその途中駅で中徳富駅と呼ばれていました。昭和47年に沼田と中徳富駅の区間が廃線となり駅名も新十津川駅。最近は学園都市線と呼ばれる通勤通学路線となっているがそれも浦臼迄、新十津川駅では列車は1日に3往復だけで札沼線の最終駅としては寂しい限り。
十津川町にある年金滴酒造は明治39年創業と北海道で最も長い歴史のある酒蔵。酒造りの原料となる酒米も新十津川産の米を中心に空知産のものを使用し、昔ながらの方法で酒造りを行っている。徳富川の伏流水と地元の米を使った酒は本物の地酒といえるでしょう。代表的な銘柄「金滴」など銘柄は130種類以上あり、蔵元でしか手に入らないものもある。◆新十津川町中央71-7 TEL:0125-76-2341
食路楽と書いてクジラと読むらしいが屋根に乗った大きなクジラが目印の物産館です。クジラは屋根だけでなく中にも・・ここには幌加尾白利加層という500万年前の地層から発掘された『シントツカワクジラ』と『カバトスジイルカ』化石の骨格標本が展示されています。物産館としては異色かもしれませんね。レストランも『くじら』という。十津川村の特産のもある。◆新十津川町中央5-1 TEL:0125-76-3141
明治22年8月、奈良県吉野郡十津川郷を襲った集中豪雨の大水害と山腹崩壊により生活の場を失った600家族が新天地を目指して苦難の旅に出る。トック原野に入植し未開の原野を切り開きいてきた十津川移住者達の人間愛などが描かれた児童文学『新十津川物語』(川村たかし原作)の精神を子供たちの情操教育に活かそうと建てられた記念館です。NHKテレビドラマの写真パネルやロケで使用された道具、衣装類の他「新十津川物語」のダイジェスト版をVTRで上映している。原作者ゆかりの品も飾られています。新十津川物語も
開拓当時の新十津川村戸長役場が置かれた場所に、開町90周年を記念して昭和55年にオープンした記念館です。館内は新十津川の歩みを7つのテーマに分け、わかりやすく説明や展示がされています。よく見ると新十津川の歴史は他の北海道開拓史とは大きな違いが有ることに気づかれるでしょう。『農業記念館』は大正10年に建てられた当時の外観に復元したもので、農業に関する資料を展示しています。◆新十津川町字中央1番地1 TEL:0125-76-2622
ふるさと公園内にある展示、体験施設です。伝統文化を受け継ぎ、新たな文化創造を目指した中核施設として86席の多目的ホール、研修室などが用意されています。展示ギャラリーには伝統工芸品や美術品などを展示している。染色や織物が気軽に体験できるほか、陶芸技術の伝習や明治時代に新十津川町にて制作された「新十津川焼き」の再燃など陶芸品の創作も体験できます。陶芸が意外と人気の様です。◆新十津川町字総進1191番地3 TEL:0125-76-2991
荻焼の土に北海道の土を混ぜ荻焼と一味違うこだわりの焼き物。薪で焼く荻焼形式の道内最大級の登り窯で焼き上げた珍しい作品も多く、主宰する清水省次さんの作品を見学する事ができます。登り窯となると芸樹的なセンスとは別に体力が無いと、大変な作業で生み出された作品ばかり。◆新十津川町総進(ふるさと公園内)TEL:0125-76-3200
徳富ダム近くで左手の林に幌加徳富駅逓跡の碑が有るという情報で古い幌加徳富駅逓跡碑の写真を見た事があったが、周囲が農地再開発で様相が少し変わって道路も変わったのか、駅逓碑も更新され道路に近い所に立っていた。駅逓の改廃年が北海道宿駅制の研究とは異なっており民営の期間があったようです。かつての小学校が有った所かもしれないとのことだが、すぐ近くに廃屋の痕跡もみられた。碑は草が伸びるとみえないかもしれません。
◇開駅:明治42年01月 ◇廃止:大正12年03月
◇初代取扱人:青野源治 ◇現住所:新十津川町北幌加
南幌加小学校跡より数百メートル手前で右折し、徳富ダム工事現場方向に進み徳富川を越えて道路がカーブし登りにさしかかる所で左法面に中程に碑がある。北海道宿駅制の研究より碑の方が一年早い開始年となっており民営の期間があったものか? この先は農地の再開発とダム工事現場関連の事業所があるだけで無人地帯。駅逓付近の白樺林も元は水田だったようです。
◇開駅:大正08年02月 廃止:昭和16年10月
◇初代取扱人:菊田馨太郎 ◇二代取扱人:菊田清兵衛 ◇現住所:新十津川町南幌加
新十津川から浜益に抜ける途中、旧吉野小学校の隣に「西徳富駅逓跡」が有ります。吉野小学校は既に廃校となっており、現在は「風の美術館」となって碑は「風の美術館」入り口の道路脇で目立つところにある。小集落の中心地なので碑は割と簡単に見つけられそうです。
◇開駅:明治37年04月 ◇廃止:大正08年03月 ◇初代取扱人:中垣隆太郎
◇現住所:新十津川町吉野 ◇GPS N43°35’44.77” E141°43’53.21”
煉瓦造りでどことなく洋風の雰囲気がある開拓記念館前にある歌碑。武四郎が安政4年旧暦5月15日にこの地を訪れた時に詠んだ歌『日数経て突区の里に来て見ればここもかはらぬ芦ぶきの宿』が刻まれている。突区はトックの事で徳富川と石狩川の合流部を指し、案内人セツカウシ家が宿泊地、隣家は同じく案内人の一人トミハセ家で、近世アイヌ人物誌に登場、セツカウシの妻は貞節な女ウエテマツとしてアイヌ人物誌に登場。◆新十津川町開拓記念館前&金滴酒造前
武四郎は安政3年5月11日と安政4年は5月15日,5月19日,5月22日の3回、翌年の安政5年2月29日(全て旧暦)に案内人の一人トツクの乙名セツカウシ家で宿泊。安政4年の丁巳日誌では「此川口(トックフト)より七八丁を上るや、夷家三軒有・・・召しつれしセツカウシ家に着し泊まる」と有る。標柱がある金滴酒造前がセツカウシの家の有った所という。安政5年の蝦夷地探査では運上屋からの巧妙な妨害工作があった様だが、それを切り抜けての上川紀行で、その辺の事情は戊午東西蝦夷山川地理取調日誌に記されている。安政5年の踏査行は石狩川の氷が開いた直後で川面を厚さ二尺もの氷が流れくる中を丸木船で遡行、トックより先は徒歩で上川に向かう大変旅だった事がわかります。◇新十津川町中央町71-7 金滴酒造横
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